第四話 第六章 星良
目が覚めた。
スマホを見た。残り15時間。
怖いはずだった。でも怖くない。なぜだろう。
暖人にメッセージを送った。起きてる?
すぐ返ってきた。迎えに行く。
大丈夫、駅で待ち合わせよう、と返した。
電車の中、暖人の手を握っていた。どちらが先に握ったかわからない。暖人の手は冷たかった。私の手も冷たかった。
電車を降りた。外に出ると風があった。
昨日と同じ街だった。でも足が重は止まらなかった。
内閣府の敷地が見えたとき、私は立ち止まった。
「ハルト」
「うん」
「パパとママのところで待ってて」
「え?」
暖人が私を見た。
「一人で行く」
「なんで」
「一人で行かなきゃいけない気がする」
そう決めた気がした。
「いや、ちょっ……」
暖人の目が赤くなった。何か言おうとして、止まった。
うつむいていた暖人が、顔を上げて私を見つめた。
「……絶対帰ってこいよ」
うなずいた。
「絶対だぞ」
もう一度うなずいた。暖人は私の手を強く握った。私はまたうなずいて、そっとその手を離した。
振り返らなかった。振り返ったら行けなくなる気がした。
「セラーー」
暖人の涙声が聞こえた。
私は振り返らずに手を上げて、振った。
職員が名前を確認した。昨日と同じスーツの男が来た。建物に入った瞬間、外の音が消えた。
――
「セラーー!」
星良は絶対帰ってくる――頭ではわかっている。でも……
星良の後ろ姿を目に焼き付けようとしたが、涙でぼやけた。
俺は星良の姿が見えなくなっても、しばらくその場から動けなかった。力無く手を付き、しゃがみ込んでしまった俺を、行き交う人々は見ていたかもしれない。
虚無感だけが俺の中身を支配した。
――
星良の家に着いたのは昼過ぎだった。
インターホンを押したら、おばさんが出てきた。俺の顔を見て、何も言わずに中に入れてくれた。
リビングにおじさんがいた。テーブルの前に座って、両手を組んでいた。俺が入ってきても顔を上げなかった。
「上がって」とおばさんが言った。「一緒に待ちましょう」
俺は座った。
誰も何も言わなかった。
おばさんがお茶を入れてくれた。誰も飲まなかった。
残り9時間。
星良にメッセージを打った。「大丈夫?」消した。「今どこにいる?」消した。送れなかった。
一度外に出た。青空の下で、小さい子どもを連れた女性が歩いていた。駅まで歩いてみた。そしてまた星良の家に帰ってきた。
重い空気は、まるで街を覆い尽くす霧のように感じた。
夕方になった。
窓の外が橙色になって、暗くなってきた。おじさんが一度立って、窓の外を見て、また座った。
残り5時間。
部屋の電気をつけないまま、三人でいた。
残り3時間。
おばさんが何か食べる?と聞いてきたが、とても何かが喉を通るとは思えなかった。
残り1時間。
おばさんの呼吸が乱れていた。おじさんは動かなかった。
残り30分。
誰も何も言わなかった。
残り10分。
おばさんが小さく「星良」と言った。それだけだった。
俺はもうスマホの画面を見ることができなかった。いや、見たくなかったんだと思う。
帰ってくるなら、もう駅に着いているはずだ。
おばさんのスマホが鳴った。
星良!
おばさんの表現が一瞬緩んだ。
おばさんが画面を見た瞬間、口を手で押さえた。声が出た。泣き声じゃない、もっと根っこのところから出てくる何かだった。椅子から崩れ落ちて、床に手をついた。星良ぁ、星良ぁぁー、声が崩れていった。体を丸めて、嗚咽が響いた。
おじさんが立った。おばさんの傍にしゃがんで、背中に手を置いた。それだけだった。おじさんの肩が揺れていた。
俺は動けなかった。確認しなきゃいけない。でも……
床に落ちたおばさんのスマホ画面が見えてしまった。
「指定執行が完了しました。」
部屋の中に、おばさんの声だけがあった。
星良。お前、約束したじゃないか!……今年の夏は一緒に海に行くんだろ!……花火はどこに見に行くんだ?……サークルだって……テニス教えてもらおうと思ってたんだぞ……まだ何もしてない……
どれくらいそうしていたかわからない。
ゆっくり立ち上がった。
「おじさん……おばさん……」
声が出た。自分の声じゃないみたいだった。
おばさんが顔を上げた。目が合った。何も言えなかった。お互いに。
玄関を出た。
まるで季節に置いていかれたかのように、外の空気が冷たく感じられた。
歩きはじめた。家に帰る気にはならなかったけど。
胸の真ん中に何か硬いものがあって、それが出てくるたびに吐き気がした。
ゆっくり歩いた。いや、ゆっくりしか歩けなかった。アスファルトが、粘りつく黒い影のように俺の足にまとわりついてくる。
星良。
そこの角を曲がったら、星良が俺を待っていてくれるんじゃないか。
歩いた。
気が付いたら駅のほうに向かっていた。次の電車が来たら、星良が降りて来るんじゃないか。
胸の硬いものが、熱くなっていた。何かが溢れそうだった。
歩いた。夜の街を、どこに向かうかわからないまま歩いた。気がついたら走っていた。走って、立ち止まって、地面を見た。息が荒かった。
星良が笑っていた。子どものころの星良が。おでんを両手で持って「あったか」と言っていた星良が。昨日、内閣府の前で、振り返らずに歩いていった星良の後ろ姿が。
声が出た。
夜の路上で、しゃがみ込んだ。誰もいなくてよかった、と思った。
どれくらいそうしていたかわからない。
立ち上がった。
また歩き始めた。
――
それから何日経ったかわからない。
星良の部屋に残っていた調査メモを、おばさんから受け取った。ノート三冊と、プリントアウトの束。星良が六日間で辿り着いた場所が、そこにあった。
読んだ。全部読んだ。
一人ではできない、と思った。同じように、この制度に殺された人間がいる。それを知っている人間が、怒っている人間がいる。
徐々に怒りがこみ上げてきた。こんな制度、バカげてる。絶対におかしい。
星良、俺はもう悲しまないぜ。お前みたいな、俺たちみたいな人を増やさせないために、この制度を終わらせる!完全にな!
SNSに思いをぶつけた。賛否両論。ただ、賛同するコメントが何件かついた。
DMで連絡を取り合った。やはりこの制度に疑問を持っている人たちは、辛い思いをしていた。
チラシを作った。コンビニで印刷した。安っぽい紙だった。それでよかった。
「選択権制度廃止を求める市民の会 代表 古賀暖人」
駅前に立った。
通り過ぎる人に、一枚ずつ渡した。受け取らない人がいた。無視する人がいた。それでいい。行動することに意味がある。チラシを差し出す手に、星良への思いを込めた。
一枚、受け取った人がいた。
スーツを着た、疲れた顔の男だった。
男はネクタイを少し緩めながら、チラシに目を落とし、ゆっくりと歩いていた。
次の一枚を、次の人に渡した。
日差しは一足早い夏のそれだった。無数のナイフのように容赦なく俺の肌を切り刻んだ。
星良のいない世界は、勝手に先に進んでいた。




