第四話 第五章 時間
朝、目が覚めた。昨日はいつの間にか寝ていたらしい。何も食べてないけど、食べる気にはならなかった。
カーテンの隙間から光が入っていた。五月の朝の光だった。
今日は、行く。
昨日、入れなかったところ、足が止まったところへ。暖人、怖いけど、私、行くね。
スマホを見た。暖人からメッセージが来ていた。
迎えに行く。何時がいい?
九時、と返した。
顔を洗った。鏡の中の自分を見た。少し痩せたかな。目の下に影があるな。それだけ確認して、なぜかそれ以上見ていられなかった。
インターホンが鳴った。カメラの映像を確認すると、暖人が立っていた。
暖人も少し疲れているような気がしたけど、たぶんいつもと同じ顔だったと思う。
「行こう」
「うん」
二人で外に出ると、空が青かった。眩しかった。
電車に乗った。
いつの間にか、手を握っていた。どちらが先に握ったのか、わからない。
暖人の手は少し冷たかった。私の手も冷たかった。二人分の冷たさが重なっていた。
暖人も私も無言だった。何か話したいけど、何を話したらいいかわからない。不安。でもここでそのことを言ったら、自分が崩れてしまう気がして、うつむいた。
駅がひとつ過ぎた。またひとつ過ぎた。
暖人の肩に、少しだけもたれた。暖人が、少しだけ寄ってきた。
それだけだった。それだけで、息ができた。
アナウンスが流れた。降りなきゃ。
手が、少し強く握られた。
改札を抜けた。階段の前に立った。
昨日もここに立った。
足に力を入れないとしゃがみ込んでしまいそう。一段、上がった。また一段。光が近づいてきた。
外に出た瞬間、風が来た。
体が、一瞬止まった。
昨日と同じ街だった。同じ建物。同じ空。同じ人の流れ。でも何かが違った。昨日はまだ、明日があった。今日は今日しかない。
歩き始めた。
足が重かった。膝から下が、水を含んだ布団みたいだった。それでも歩いた。暖人も隣で歩いていた。二人とも黙っていた。
官庁街の建物が並んでいた。整然として、清潔で、まるで感情を持ったことがないような顔をしていた。昨日はその奥のどこかに私の名前を知っている何かがいると思った。今日は違った。もうどこにいるかわかっていた。まっすぐ前にいた。
内閣府の敷地が見えてきた。
息が、浅くなった。
敷地の入口に、小さな小屋があった。その小さな箱の前に立ったとき、喉の奥で何かが鳴った。泣き声ではなかった。声にならない何かだった。
暖人の手を、強く握った。
暖人も握り返した。
小屋の中に職員がいた。
「お名前をどうぞ」
「市来星良です。対象者指定について、問い合わせに来ました」
職員がパソコンの画面を確認した。少し間があった。
「市来星良様、中にお進みください」
職員が建物の奥を示した。
暖人が一歩、前に出た。
「俺も行きます」
職員が首を振った。
「お連れの方はここまでです」
「なんで。一緒に来たんです」
「規則ですので」
暖人の声が変わった。
「そんな規則おかしい。この人は対象者なんですよ。一人にできない」
「ハルト」
「セラは——」
「ハルト」
振り返った。
暖人が私を見ていた。何か言おうとして、言えなかった。口が動いて、止まった。
敷地の奥から、スーツを着た男が歩いてきた。
「市来様、こちらです。」
暖人が男の腕を掴んだ。
「待ってください。話を——」
横からガードマンが来た。暖人の体を抑えた。暖人が振りほどこうとした。もう一人来た。二人がかりで押さえられた。
「離せ、離してください、セラ——」
私は暖人を見て、足が止まった。
ガードマンに両腕を抑えられた暖人が、それでも私を見ていた。目が赤くなっていた。
「セラ」
声が、掠れていた。
「気をつけろよ」
うなずいた。
「絶対、帰って来いよ」
もう一度、うなずいた。
言葉が出なかった。出そうとしたら、喉が締まった。だからもう一度だけ、うなずいた。
スーツの男が隣に立った。
「こちらです。」
歩き始めた。
後ろで、暖人の声がした。
「セラ——」
暖人の元へ行きたかった。やりたいこととやらなければいけないことの乖離と、不安と恐怖で、頭の中がグチャグチャになった。
暖人のことを見ながら、スーツの男の人に連れられ、建物に入った瞬間、外の音が消えた。
蛍光灯の光が、均一に広がっていた。色のない場所だった。足音だけが響いた。自分の足音と、隣の男の足音。それだけだった。
暖人の声は、もう聞こえなかった。
歩き続けた。
廊下の先に、また扉があった。
男が扉を開けた。
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俺は内閣府の前に着いたとき、まずスマホを確認した。残り37時間。画面を閉じて、また開く。数字は変わらない。当たり前だ、と思いながら、それでも確認せずにはいられない。この六日間ずっとそうだった。見るたびに胃の底が冷えるのに、目が勝手にアプリを探す。
「一緒に入れないかな」
言ってから、無駄だとわかっていた。
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俺はガードマンに抑えられていたが、何もできないことはわかっていた。でも、何かしたかった。
「わかりました。何もしません。でも、近くで待ってていいですか?」
ガードマンも、受付の人も困惑していたが、俺がすでに抵抗しないということがわかると、「ご自由にどうぞ」と言って俺を解放した。
最初の三十分は、まだよかった。
近くのコンビニでコーヒーを買って、庁舎の正面が見えるベンチに座った。温かい缶を両手で包むと、少しだけ落ち着いた気がした。星良が中にいる。それは事実だ。
行き交うスーツの群れを目で追いながら、俺は考えた。
この建物の中で、誰かが星良と向き合っている。星良は一人で、その部屋の中にいる。
コーヒーが冷めた。飲み終えて、缶をゴミ箱に捨てた。ベンチに戻って、スマホを開いた。残り36時間。
また閉じた。
一時間を過ぎたあたりから、俺は落ち着いていられなくなった。
ベンチから立って、庁舎の前を少し歩いた。ガラスの自動ドアの前まで行って、中を覗いた。星良の姿はない。当然だ、中の、もっと奥にいる。それはわかっている。
わかっているのに、足が動かなかった。
「もし何かあったら」という思考の入口を、この六日間ずっと塞ぎ続けていた。そこを開けてしまうと、止まらなくなる気がしていた。でも今は、少しずつ隙間が広がっている。
暖人はもう一度、スマホを開いた。残り35時間。一時間経っていた。
二時間を超えたとき、俺は庁舎の入口に向かった。
受付の職員に声をかけた。「市来星良という人間が面談で入っているはずなんですが、まだかかりますか」
職員は少し待って、内線で確認した。「まだお時間いただいているようです」
「あとどれくらい」
「わかりかねます」
俺はその場に立ち尽くした。わかりかねます、という言葉が頭の中で繰り返された。その言葉がただの壁のように感じた。
「何かあったら、こちらに連絡いただけますか。彼女の知り合いです」
「面談中の方への連絡のお取り次ぎは……」
職員が一瞬迷うのがわかった。俺は何も足さなかった。沈黙のまま待った。
「確認してみます」と職員は言った。
俺は入口の前で待った。五分後に職員が出てきて、「先方から、もうしばらくかかるとのことです」と言った。
三時間が経った。
俺は一度その場を離れて、駅前まで歩いた。立ち止まって、何をしに来たのかわからなくなった。また庁舎に戻った。ベンチに座って、ジャケットのポケットに手を突っ込んだまま、ぼんやりと庁舎を見ていた。
長いな。
星良が今どこにいるか、誰と話しているか、何を話しているか。
スマホに星良への未送信のメッセージが三件ある。「どう?」「まだかかりそう?」「大丈夫?」全部、送らなかった。面談の邪魔になるかもしれないと思って。それとも、返事が来なかったときのことを考えると、送れなかったのかもしれない。
残り33時間。居ても立ってもいられない思いで、ベンチに座った。立った。また座った。再度駅まで歩いた。また帰ってきた。
腹が鳴った。
コンビニに入った。
何を買ったのか覚えていなかった。
袋だけ持って外に出ていた。
ベンチに座ったまま、
眠ったのかもしれない。
目を閉じた。
すぐに最悪の想像が浮かんだ。
目を開けた。
星良は今きっと戦ってるんだ、星良だって怖いはずだ。不安なはずだ。俺が弱気になってどうする。俺は絶対に星良を守る。俺も一緒に星良と戦ってるんだ。そう思わないと何かが崩れ落ちそうだった。
残り31時間。俺は自分の記憶がさかのぼれる範囲で星良とのことを思い出していた。一緒に幼稚園に行ってたこと、お互いの家族と一緒に海に行ったことや、こないだみんなでディズニーに行ったこと。そういえば、ケンカらしいケンカはしたことないな。いつも星良はニコニコしてた。あの笑顔が俺は……
残り30時間。今年の夏の計画を考えることにした。海に行きたいって行ってたな。大学のサークルのみんなと行く海は、幼い頃行ったのとはまた違う感じなんだろうな。花火も見たいって言ってたな。どこ行こうかな。隅田川?お台場?それともなんか遠いところ?
残り29時間。自動ドアが開いた。
人が出てきた。
違う人だった。
また人が出てきた。
違った。
次に出てきた人を見て、
体が先に理解した。
星良だった。
気づいたら足が動いていた。
「どうだった」
息が少し乱れていた。星良は俺を見て、一瞬だけ目を細めた。
「話は聞いてもらえた」
歩きながら言った。俺に向かって歩いてくる、その顔は落ち着いていた。疲れてもいないし、泣いてもいない。不思議なくらい、落ち着いていた。
「ずいぶん長かったね。でも帰ってきてよかった。どんな話だった?」
「いろいろあったけど、肝心なことは教えてもらえなかった。でも……収穫はあった」
そう言って、星良は少しだけ微笑んだ。
俺はその笑顔を見て、何かを探した。何を探しているのか、自分でもわからなかった。
星良はよく笑う。俺はそれを子どものころから知っていた。嬉しいときも、困ったときも、誤魔化したいときも、それぞれ笑い方が少しずつ違っていて、俺はたぶんそのほとんどを見分けられると思っていた。
でも今の笑い方は、どれでもない気がした。
気のせいかもしれない。六日間、ずっと不安だったから、自分の感覚がおかしくなっているだけかもしれない。外で八時間も待たされて、過敏になっているだけだ。
「帰ろう」と星良が言った。
「……ああ」
俺は隣に並んで歩き出した。「収穫って何だった」と聞こうとして、やめた。星良が話すつもりなら、話す。それまで待てばいい。
星良の歩幅はさっきよりゆっくりだった。それだけは、いつもと同じだった。
この街の人波は、朝とは逆方向に動いていた。まるで意思を持った液体のようだった。
残り時間を、俺はもう確認しなかった。




