第四話 第四章 空欄
次の日、暖人を家に呼んだ。
スマホを、差し出した。
暖人は画面を見た。
黙っていた。
「……どういうこと?」
「わからない」
暖人がもう一度、画面を見た。また黙った。
「……いつ来たの?」
「昨日」
暖人の視線が、指定者の欄で止まった。
「空欄?」
「うん」
暖人がスマホをテーブルに置いた。私を見た。私を見たまま、何も言わなかった。
時計の音がしていた。
「……セラ」
「うん」
「これ、本物?」
うなずいた。
暖人が立ち上がった。部屋の中を二歩歩いて、止まった。また私を見た。
「なんで、誰が」
「わからない。でも——」
言いかけて、止まった。どこから話せばいいのか、わからなかった。
「……調べてたんだ。制度のこと」
「いつから」
「ずっと。図書館で」
暖人が戻ってきて、椅子に座った。
「全部、話して」
話した。
話しながら、手が震えていた。気づいたら震えていた。テーブルの上で両手を重ねた。それでも止まらなかった。
暖人はずっと黙って聞いていた。
話し終えた。
しばらく、何も言わなかった。
「……資料、見せて」
「うん」
ノートパソコンを開いた。暖人が隣に来た。画面を見始めた。
私は暖人の横顔を見ていた。
その日から、暖人は毎日来た。
二日目。残り132時間。
暖人が名簿を読んでいた。私はその隣で、同じページを三回読んでいた。
ふと気づくと、手が震えていた。膝の上に置いて、押さえた。
暖人が顔を上げた。
私の手を見た。
何も言わずに、両手で包んだ。
「大丈夫。俺がいる」
窓の外で、風が鳴った。
三日目。残り108時間。
暖人がコンビニの袋を持って来た。おにぎりとお茶。
「飯、食べてる?」
首を振った。
「食べて」
受け取った。一口食べた。味がよくわからなかった。
暖人は何も言わずに、また画面を見始めた。
部屋の中が静かだった。二人いるのに、静かだった。その静けさが、少しだけ、あたたかかった。
四日目。残り84時間。
図書館に行った。
暖人は初めて来た場所のはずなのに、黙って隣に座った。
私が資料を開いた。暖人が覗き込んだ。
設立年。解散年。有識者会議との重なり。
ページをめくるたびに、暖人の呼吸が少しずつ変わった。
閉館のアナウンスが流れた。
暖人がノートを閉じた。外に出ると、夕方の光が横から差していた。
「ねえ、ハルト」
「ん?」
「内閣府、行ってみようと思う」
暖人が足を止めた。
「指定者が空欄なのって、おかしいじゃない。直接、問い合わせたら」
「……応じると思う?」
「わからない。でも他に手がない」
暖人がしばらく黙っていた。夕暮れの中に、二人の影が伸びていた。
「……じゃあ俺も行くよ」
五日目の夜。残り70時間。
眠れなかった。
天井を見ていた。部屋の中は暗かった。
スマホが光った。
暖人からだった。
眠れる?
少しだけ、と返した。
画面が暗くなった。また光った。
そっか。おやすみ。
スマホを置いた。天井を見た。
眠れなかった。
次の朝。残り61時間。
二人で家を出た。
電車の中、暖人は窓の外を見ていた。私も窓の外を見ていた。
駅に着いた。
改札を出た瞬間、足が重くなった。
外の空気に押し戻されそうになった。この街は、もう私たちを知っている気がした。
官庁街の建物が並んでいた。
どれもが同じ顔をして、私たちを見下ろしている。
昼休みの人たちが普通に歩き、笑い、電話をしている。
なのに音だけが遠い。世界が薄いガラス一枚ぶん、後ろにずれているみたいだった。
向こうから歩いて来た男が、ポケットから手を出した。
そのわずかな動作にさえ、肺の奥が凍りつき、呼吸が止まる。
気づいたら、暖人の腕を掴んでいた。
暖人は何も言わずに、少しだけ歩幅を緩めてくれた。
それだけで、私は自分がまだ、この地面に繋ぎ止められていることを思い出した。
風が吹いた。
街路樹の若葉が一斉に揺れた。何かを大量に処理している音のようだった。
内閣府の前に着いた。
隣には暖人が居てくれている。でも……
行かなきゃいけない。でも……
頭では分かってる。これしか方法が無いと言ったのは私。でも……
動けなかった。足が、体が、頭が、動かなかった。
「ハルト、ごめん。」
「なに?」
「……」
言葉にならなかった。言ったら何かが壊れてしまう気がした。
「わかったよ。セラ、今日は帰ろうか」
暖人が何かを察したように、珍しく優しい口調でそう言った。
「……うん。ごめん。」
私は小さく頷いた。
帰宅後、布団をかぶって、泣いた。なんで泣いているのか、自分でもわからない。きっと、本当はこんなことしている場合じゃないのかもしれないけど。
暗闇が、自分と一体化しそうでしない。何かが襲ってくるようだった。




