第四話 第二章 近代政策史
暖人は結局、近代政策史の授業に来た。
初回の講義が始まる五分前、隣に滑り込んできて、「混んでる」とだけ言った。百人以上入る大教室が、ほぼ埋まっていた。
「人気なの、この授業」
「みたいだな。なんでだ?」
「単位が簡単に取れるみたいよ」
「じゃあなんでセラは去年途中でやめたんだよ」
「……うん、わからない」
教授が入ってきた。六十代くらいの、背の低い男だった。出席を取らずにすぐ話し始めた。
「まずはじめに、私は政治的立場は持ちません。その点を誤解せぬよう、生徒諸君には伝えておきます」
二回目から、暖人は来なくなった。
「今日来ないの?」
「眠い」
一人で出た。
授業は戦前から始まった。
国家総動員法。治安維持法。名前は知っていたけど、中身はよく知らなかった。国が戦争のために国民の生活を丸ごと管理したり、反政府的な思想を持つだけで逮捕されるなんて……こんなものが本当にあったんだ、と思いながらノートを取った。
戦後の話になった。教授の話は感情がなかった。ただ淡々と、時代が動いていった。
何回目かの講義で、ようやく現代に入った。
スライドが切り替わった瞬間、教室の空気が変わった気がした。
――選択権制度
制度が成立する前、社会はかなり荒れていたらしく、犯罪は増加の一途をたどっていた。
・SNSを介したストーカー
・AIを駆使した詐欺事件
・それらに対応できない法律の限界
・司法への不信
・犯罪被害者運動
・私刑の横行
・SNS世論
——それらを表す数値やグラフが並んだ。
「当時、司法は世論から機能不全と評価されています。」
教授は淡々と授業を進める。
「次の資料にあるように、当時の世論調査では、司法制度に対する不信感がピークを迎えています。」
スライドでは当時の新聞やニュースの様子、SNSからの引用などが映し出された。
「〇〇(加害者の実名)普通に生活してるらしい」「また不起訴?どうなってんの?」「#司法終わってる」「やったもん勝ち」「もう日本も安全とは言えないな」「法制度を見直す時期では」
教室が少しざわついた。ふと周りを見ると、頷いてる生徒もいた。
「このようなSNSの声の他、特定された犯人に対して自警団が暴行することも多発し、社会問題になりました」
「そのような『法治国家の崩壊』とも言える状況の中、世論に押される形で、政府は有識者会議を立ち上げます。」
次のスライドに出たグラフでは、制度成立前後での、与党支持率の上昇、暴力事件件数の劇的な低下などが示されていた。
グラフの色がやけに鮮明な気がした。
「このように、選択権制度は当時多くの国民に支持され、現在でも非常に有効な制度として機能しています。」
なるほど、と思った。でも、何だろう?
ノートを取る手が少し遅くなった。
うまく言葉にならないまま、授業が終わった。なんでこんなにモヤモヤしているんだろう。去年は確か、このあたりで授業に出なくなったんだっけ。
ノートを取る手はいつの間にか止まっていた。
教授は静かに授業を続ける。
「かつての国家総動員法や治安維持法が『お国のため』という同調圧力だったのに対し、この選択権制度は『個人の権利』として機能しているところが大きな違いです」
個人の権利――後でテストに出そうな気がして、慌ててノートに書き写した。
その文字だけ、浮いているような気がした。
――授業が終わった。
みんなが教室から出て行く中、私だけまだ席に座っていた。このズシンと重い感じはなんだろう?
教授が荷物をまとめているところを見て、とっさに近づいた。
「少し聞いてもいいですか」
何を聞きたいのか、自分でもよくわからない。
教授は顔を上げた。
「……えっと、あの……制度が成立したとき、反対意見はなかったんですか」
教授は少し間を置いた。
「あったよ。かなり」
それだけ言って、また荷物をまとめ始めた。
「……成立までの経緯って、どこかで調べられますか」
教授は教壇のマイクのあたりをチラリと見て、また少し間を置いた。
「図書館に当時の議事録がある。あとは——」
一瞬、何かを考えるような顔をした。
「自分で調べなさい」
荷物を持って、教室を出ていった。
外に出ると、曇っていた。
暖人からメッセージが来ていた。
今日どうだった?
しばらく画面を見ていた。
普通だったよ、と返した。
歩きながら、教授の顔を思い出した。答えたのに、答えじゃなかった気がした。
五月の日差しは強かった。今年の夏も暑いんだろうなと思った。




