底の気配
石の臨界は刻一刻と近づいていた。
グレゴルたちが村の外で待ち始めてから三日。斜面の石は夜ごと強く明るむようになった。淡い青みはもはや「気のせい」では済まされぬほど、はっきりと闇を染めていた。村のどこからでもそれが見えた。
被害も広がった。死んだ羊は十を超えた。井戸はついに涸れた。村の者は遠くの沢へ水を汲みに行くしかなくなり、その道すがら、北の峠に陣取る灰色の男たちを怯えた目で見るようになった。
村は二重に追い詰められていた。目を覚ましかける石と、それを待つ国の影とに。
そしてセイルだけが知っていた。西からももう一つの影が迫っていることを。
セイルは毎晩石の前に立った。
臨界が近いなら、止め方を視つけねばならない。石が完全に灯る前に。グレゴルに連れ去られる前に。カインに連れ去られる前に。村が巻き込まれる前に。
時間がなかった。
だからその夜、セイルはいつもより深く視ようとした。呑まれると分かっていながら。これまで踏みとどまってきたあの一線の、さらに奥へ。
閉じて、絞って、向ける。石の脈動のその源へ。
視えた。脈打つ光の奥。途方もなく古い、名づけようのない気配。半年前ここで初めて視たあの感覚。
もっと奥へ。
石の奥のさらに底へ。
その瞬間、セイルは視てしまった。
石のいちばん底。脈動のその向こう側。そこに――何かがあった。
言葉にならなかった。途方もなく大きかった。古かった。石の奥の気配が川のせせらぎだとすれば、それは海のいちばん深いところに横たわる何かだった。眠っていた。深く、長く、世界の底で。
その何かに比べれば目覚めかけたこの石の騒ぎなどさざ波に過ぎなかった。
そして石が灯ろうとするたびに――その底の何かがわずかに身じろぎするのを、セイルは視た。石の臨界が、まるで底のそれを呼び覚まそうとしているかのように。深く眠るもののまぶたが、ほんの少しだけ震える。
ぞくりとした。
既視感があった。なのに一度も視たことのないものだった。畏れが肌を駆け上がった。これは視てはいけない。近づいてはいけない。体のいちばん深いところが、悲鳴を上げていた。
――もしお前の視る力が、そういう場所へお前を導こうとしても。決して踏み込むな。
都の薄暗い研究室でオルセンが言った言葉が、雷のようによみがえった。祖型に深く関わる土地には、決して近づいてはならぬ場所がある。学問も神秘も等しく恐れる場所。近づいた者は、記録すら残さず消える。あれはお前一人で触れていいものではない。
これだとセイルは思った。
オルセンが警告したのは。これだったのだ。
セイルは必死に視るのをやめようとした。
だが、視てしまったものから目を逸らすのは視ることよりも難しかった。底の何かに、肌の奥が引かれていく。石の脈動を通して、そのもっと奥の巨大な眠りへと自分の感覚が吸い寄せられていく。
このまま視続ければ、石にではなく――その底のものに呑まれる。
戻れなくなる。竜種化の淵どころではない。あれよりも、ずっと深い底へ。
セイルは渾身の力で感覚を引き剥がした。
目を開けた。
斜面に膝をついていた。全身が汗で濡れていた。心の臓が壊れそうに打っていた。手が震えていた。石は変わらず青く明るんでいた。何も知らぬげに。だが、その奥にあんなものが眠っているなど――。
しばらく動けなかった。
ようやく息が整うと、セイルはいくつかのことを理解した。
あの石はただの村の祟りではなかった。あれはもっと大きな何かへ通じる扉のようなものだった。そしてその扉が開きかけている。扉の向こうには、世界の底で眠る途方もない何かがいる。
もし石が完全に灯れば。あの底のものが目を覚ましかねない。
それがどれほどのことなのか、セイルには分からなかった。だが肌が知っていた。あれが目覚めれば、村も辺境も中央も――何もかもがただでは済まない。さざ波が津波になる。
グレゴルが欲しがるはずだ、とセイルは思った。あの男はこれを観測したがっている。国家の管理下で。あの底のものの気配を。
カインも欲しがるはずだ。神秘の手も。失われた力の源泉として。
誰もがこの扉を開けたがっている。あるいは開く瞬間に立ち会いたがっている。その先に何があるかも知らずに。
いや――知っていてなおかもしれない。
だから止めねばならなかった。誰よりも先に。扉が開ききる前に。底のものが目を覚ます前に。
だがどうやって。一人で触れてはならぬと、オルセンは言った。なのにここには自分しかいない。石の奥を視られる者は。
斜面を下りると、ふもとにティナが立っていた。
心配して待っていたのだろう。セイルの汗だくの青ざめた顔を見て、ティナの表情がこわばった。
「セイル、あんた……何を視たの」
セイルは答えられなかった。
あの底の気配をどう言葉にすればいいのか、分からなかった。言えば、ティナも村ももっと恐れるだろう。だが――言わなくても、ティナには伝わったらしかった。セイルの顔が語っていた。視てはならぬものを視てしまったと。
「……怖いんだね」ティナが静かに言った。問いではなかった。
「ああ」セイルは初めて認めた。「怖い」
ティナは何も言わずに、セイルの隣に立った。理解はできなかっただろう。セイルが何を視たのか。だが、ただ隣にいてくれた。
西の空が暮れていた。
その暮れていく西の彼方から――血の匂いのする古い気配が、もうすぐそこまで来ていた。




