山を越える影
猟師のロウが山から下りてこなくなった。
いつもなら二日に一度は獲物を提げて村へ戻る男だった。それが四日、姿を見せない。村の者は、また山で長逗留しているのだろうと気にも留めなかった。だが、セイルは胸の奥がざわついた。
石のことで毎日斜面に通ううち、セイルは村の周りの「気配」に前より敏くなっていた。石の脈動だけではない。土地の細かな乱れ。獣の怯えの向き。そうしたものが肌に絶えず触れてくる。
そしてこの数日――村の北の峠のほうから。
何かが近づいていた。
五日目の朝、ロウがようやく下りてきた。
獲物は提げていなかった。土気色の顔で、まっすぐにセイルの家へ来た。
「セイル」ロウは低い声で言った。寡黙な男がわざわざ訪ねてくること自体、ただ事ではなかった。「お前視えるんだろう。あの視る石みたいに。――山に変なのがいる」
「変なの」
「獣じゃねえ」ロウは首を振った。「人だ。だが山に慣れた人間の歩き方じゃねえ。痕跡を消しながら来る。猟師のおれですら、危うく見落とすところだった。それも――一人や二人じゃねえ」
セイルは息を呑んだ。
ロウの言葉が、肌のざわつきとぴたりと重なった。峠のほうから近づいてくるあの気配。冷たく、整然とした、隙のない――。
「ロウさん」セイルは訊いた。「そいつらどっちへ向かってる」
ロウは節くれだった指で、地面に村と山の形を描いた。それからその指を、ゆっくりと村のほうへ滑らせた。
「ここだ」
その日の夕暮れ、セイルは村の北のはずれまで一人で出た。
ロウは「危ねえ」と止めたが、視なければ何も分からなかった。村の縁の低い丘の上に立ち、北の峠のほうへ肌の感覚を向けた。
閉じて絞って向ける。オルセンに教わったとおりに。
視えた。
峠を越えたその先。木立の陰に、いくつかの「気配」が潜んでいた。一つ、二つ――五つ。じっと動かずに。だが、その佇まいには覚えがあった。冷たく計算され尽くしたあの感じ。整然と組み上げられた学問の力。
都の路地で自分を網にかけようとしたあの捕える手。
記録に存在しない男たちの。
「公理庁」セイルは呟いた。
間違いなかった。第七公理庁の追っ手だ。都からここまで追ってきた。自分を確保しに。あるいは――目を覚ましかけたあの石を検めに。
だが奇妙だった。気配は村のすぐ手前まで来ていながら、踏み込んでこない。じっと息を潜めている。まるで何かを待つように。あるいは見定めるように。
確保に動く前に、まず視ている。あの男たちのやり方だとセイルは思った。都でグレゴルが自分を試したように。本気で手を伸ばす前に、まず相手の出方と、この村の「石」がどこまでのものかを測っている。
村へ戻るとロウが村長のゴルド爺と待っていた。
ゴルド爺は村でいちばんの年寄りで、村の決め事を取り仕切る者だった。皺だらけの顔に深い困惑を浮かべて、セイルを見た。
「ロウから聞いた」ゴルド爺はしわがれた声で言った。「山によそ者が潜んでいると。お前は――それが何者か視えたのか」
セイルは迷った。
本当のことを言えば、村はもっと自分を恐れるだろう。化け物が化け物を呼んだと。だが――黙っていれば、村は何も知らぬままあの男たちに巻き込まれる。
言うしかなかった。
「中央の国の連中だ」セイルは言った。「記録に残らない影の機関の。――おれを追ってきた」
ゴルド爺の顔がこわばった。ロウは黙って目を伏せた。
「お前を」ゴルド爺は絞り出すように言った。「なぜ国が」
「おれが」セイルは言った。「あの石の奥を視られるからだ。あいつらはそれを欲しがってる。おれとあの石を」
沈黙が落ちた。
ゴルド爺は長いあいだ何も言わなかった。やがて、深い深いため息をついた。
「……厄介な子だ」老人は言った。だが、その声に棘はなかった。あるのはただ、途方に暮れた村の長としての重みだけだった。「お前が帰ってから石が騒ぎ、今度は国の影まで来る。村の連中はお前のせいだと言うだろうよ」
「分かってる」
「だが」ゴルド爺はセイルをまっすぐに見た。「お前はこの村の子だ。ハルダが育てた子だ。よそ者に好きにさせるわけにはいかん。――何をすればいい。お前に視える者として」
セイルはその言葉に胸を突かれた。
追い出されると思っていた。化け物として。だが村の長は――恐れながらも、自分を村の子として扱おうとしていた。
その夜、セイルは寝つけなかった。
北の峠の五つの気配。あれはまだ偵察に過ぎない。本隊がいずれ来る。確保のために。あのグレゴルという男が、自ら来るのかもしれない。
だが――それだけではなかった。
肌のもう一方の側で。別の気配が近づいていた。
北の学問の影とは違う。西の、もっと古い道のほうから。血の匂いのする、重く、声で紡がれる力。あの甘い淵を開いた鍵守の。房の結界の。
二つの力が別々の方角から、この村へ迫っていた。
学問の影は北の峠から。神秘の手は西の古道から。どちらも目覚めかけた石を、そしてその石を視る自分を求めて。
挟まれている、とセイルは思った。都でそうだったように。だが都とは違った。
ここにはハルダがいる。ティナがいる。ロウが、ゴルド爺が、村の者たちがいる。
巻き込みたくない者たちのただ中で。今度は逃げ場がなかった。




