脈打つ石
その夜、村で最初の羊が死んだ。
囲いの隅で身を寄せ合っていた一頭が、朝には冷たくなっていた。傷ひとつない。ただ何かに生気を吸い尽くされたように、痩せ細っていた。
次の夜には二頭。その次の夜には四頭。
井戸の濁りもひどくなった。汲み上げた水は薄く濁り、生臭い匂いがした。村の女房たちは、遠くの沢まで水を汲みに行くようになった。
そして夜になると――村はずれの斜面がぼうっと明るんだ。
はっきりとした光ではなかった。月明かりとも星明かりとも違う、淡い青みがかった明るさ。石のあるあたりだけが、闇の中にうっすらと浮かび上がる。村の者は誰も近づかなくなった。日が落ちると皆家に閉じこもり、戸を固く閉ざした。
祟りだと村は囁いた。そしてその祟りを呼んだ者の名を。
あの子が帰ってきたから。
セイルは毎日斜面に通った。
村人の目を避け、明け方や日暮れに。石の前に立ち、肌でその内側を視た。
脈は日に日に強くなっていた。
半年前一度だけ閃いて静まったあの光。それが今は消えずに、内側で燻り続けている。そして一打ちごとに、ほんのわずかずつ高くなっていく。眠っていた何かが、ゆっくりと目を覚ましかけている。
いつかこの脈がある高さを越えたとき。石はまた光る。あの夜とは比べものにならない規模で。そのとき村は――この薄魔力の辺境の村はどうなるのか。羊が死に、井戸が濁り、斜面が明るむ。それはまだ序の口に過ぎないのかもしれなかった。
止めなければとセイルは思った。
だがどうやって。
セイルには魔力がない。術を編むことも、力で何かを打ち倒すこともできない。できるのはただ視ることだけ。事の奥を視抜くことだけ。
もっと深く視れば。石の脈動のその源まで視通せば。あるいは、止め方が視えるかもしれない。
だが――そこには淵があった。
深く視ようとするたび、肌の奥が石の脈に引かれた。同調しかけた。境が溶けかけた。修練で何度も経験したあの感覚。これ以上踏み込めば、視ている側が視られる側に呑まれる。戻れなくなる。都で斬竜の名を聞いたとき、背筋を凍らせたあの恐怖。英雄が竜に堕ちる。視る者が視られるものになる。
一人では踏み込めなかった。踏み込まなければ止められない。なのに、踏み込めば自分が消える。
セイルは石の前で立ち尽くした。
ハルダも何かを感じ取っていた。
ある晩、セイルが斜面から戻ると、ハルダが土間で何かを唱えていた。低い、聞き取れない言葉。ばあさまのそのまたばあさまから継いできたという、あの祈り。境界石の前で唱えるべき言葉。
セイルは戸口で立ち止まった。
ハルダの背は小さく丸まっていた。痩せた肩が震えていた。祈りながら、老人は必死に何かに抗おうとしていた。村に染み出してくるあの異変に。畏れと言い伝えだけを頼りに。
「ばあちゃん」
セイルが声をかけるとハルダの祈りが止まった。
「……効きゃしないよ」ハルダは振り返らずに呟いた。「分かってる。こんな言葉、ただのまじないだ。中身も知らずに、ただ唱えてきただけの。あの石が本気で目を覚ましかけてるなら――こんなもので止まるわけがない」
ハルダは皺の刻まれた手で顔を覆った。
「あたしは何も知らないんだ。ただ畏れることだけを教わってきた。なんで畏れるのかも知らずに。――こんなときに、何の役にも立ちゃしない」
セイルは祖母のそばに膝をついた。
神秘の旧い作法も、ここでは届かない。何百年も唱えられてきた言葉は、中身を失ったただの音だった。畏れることしか継いでこなかった村は、いざ畏れていたものが目を覚ましかけたとき、なすすべを持たなかった。
神は助けない。祈りは届かない。ならば――人が手を打つしかなかった。
手を打てるのはこの村でただ一人。
石の奥を視ることのできる自分だけだ。
「ばあちゃん」セイルは言った。「役に立たないなんてない。ばあちゃんたちがずっとあの石を畏れて近づかずにきたから――今日まで村は無事だったんだ。畏れるってのは、たぶん正しかった。ただ――」
セイルは言葉を切った。
「ただ、今度ばかりは畏れて遠ざけるだけじゃ足りない。誰かがあの石のいちばん奥まで、視に行かなきゃならない」
ハルダが顔を上げた。皺の奥の目が孫を見た。その目が、ゆっくりと見開かれていった。
「おまえ……まさか」
その夜だった。
斜面の石がひときわ強く明るんだ夜。セイルが寝床で目を閉じても眠れずにいた、そのとき。
肌がざわついた。
石の脈動――ではなかった。それとは別の。村の外から。
遠く街道のほうから。何かが近づいてきていた。
二つ。
一つは冷たく、計算され尽くした気配。整然と、隙なく組み上げられた学問の力。あの都の路地で自分を網にかけようとした、捕える手。記録に存在しない男の。
もう一つは古く、重く、血の匂いのする気配。声で紡がれる書けない魔法。房の結界の。あの甘い淵を開いた鍵守の。
学問の影と神秘の手。
二つの力が別々の道から、しかし同じ一点へ向かって近づいてきていた。
この最果ての灰櫟村へ。
セイルは跳ね起きた。
なぜと問うまでもなかった。石がまた灯りかけている。祖型へ通じる古い装置が、目を覚ましかけている。それは学問にとっても神秘にとっても、見過ごせるものではない。そしてその石のいちばん近くには――自分がいる。
追ってきたのだ。都からここまで。観測器を確保しに。器を迎えに。あるいは――目覚めかけたこの石そのものを、我がものにしに。
窓の外で斜面の石が青く明るんでいた。
その光がこれまででいちばん強かった。




