斜面のティナ
村はずれの斜面は半年前と何ひとつ変わっていなかった。
枯れた下草。剥き出しの岩。風の通り道。そしててっぺんに立つ黒ずんだ石柱。村の者が視る石と呼ぶあの古い石。
だが近づくほどに肌のざわつきは強くなった。
石の前までまだ十歩はある。それなのに皮膚の下が絶え間なく騒いでいた。都のいちばん魔力の濃い場所にいたときよりも、なお。この世界でいちばん薄いはずの、辺境の村で。
ありえないとセイルは思った。だが肌は嘘をつかない。
「――セイル?」
背後で声がした。
振り返ると、斜面の下にティナが立っていた。籠を背負っている。冬支度の薪集めの帰りだろう。半年前と同じ姿だった。ただ、その顔は笑っていなかった。
「ほんとに……あんたなの」ティナはゆっくりと斜面を登ってきた。「村の連中が騒いでたけど。まさかと思って。中央に行ったきり帰ってこないって、みんな……」
ティナはセイルの前で立ち止まった。
しばらく二人は何も言わなかった。風が枯れ草を鳴らした。
「……帰ってきたんだ」やがてティナが言った。声が少し震えていた。「駄目になったの? 向こうで」
あの朝の言葉だった。村はずれで別れぎわに、ティナが言った。どうしても駄目になったら、帰ってきてもいいと。
「駄目にはなった」セイルは言った。「でもそれで帰ってきたんじゃない」
「じゃあなんで」
「あの石を視に来た」
セイルはてっぺんの石柱を顎で示した。ティナの顔がこわばった。
「……やめなよ」ティナは言った。声が低くなった。「あの石おかしいんだよ。このごろずっと。村のみんな近づかない。家畜が怯えるし、井戸も濁ってきてるし――あんたが帰ってきたからまた始まったって、言う人だっている」
「知ってる」
「知ってるならなんで」ティナの声が尖った。「なんでわざわざ、そんなものに近づくのさ。せっかく無事に帰ってきたのに」
セイルはティナの顔を見た。
怒っていた。だが、その怒りの奥にあるものを、セイルには視るまでもなく分かった。怖がっていた。セイルのことを。半年前、村のみんなが向けたあの目で。ついにティナまで――。
そう思いかけて、セイルは気づいた。
違う。ティナが怖がっているのはセイルではなかった。石だった。そして、その石に近づこうとするセイルの身を。
「あんたが」ティナはぐっと言葉を呑んでから続けた。「あんたが変なのは知ってる。昔から知ってる。村のみんながなんて言おうと、あたしはあんたが化け物だなんて思ったこと一度もない」
ティナはまっすぐにセイルを見た。
「でも、だからってあんたがあの石に何かされてもいいなんて思ってない。あんたはあんただよ。化け物でも英雄でもない。ただの村の変なあんただ。それでいいじゃない。なんでそれじゃ駄目なのさ」
セイルは言葉に詰まった。
いつか自分が怖れたことがあった。この「変さ」がただの勘では済まなくなる日が来たとき。ティナはまだ隣にいてくれるだろうかと。
その日が来ていた。変さはもうただの勘では済まなくなった。世界を揺るがすほどの何かになった。化け物と呼ばれ、観測器と呼ばれ、再来と呼ばれた。
そしてティナは――まだ隣にいた。化け物とも英雄とも呼ばずに。ただの変なあんたと。
それがどれほど得難いものか、セイルは半年かけて知っていた。都には誰一人いなかった。
「ティナ」セイルは静かに言った。「おれは自分が何なのか知りたいんだ。村のみんながおれを気味悪がるのも。あの石がおれの前で光ったのも。おれは何も分からないまま、村を出た。分からないまま生きるのは、もう嫌なんだ」
「……知ってどうするの」
「分からない。けど」セイルは石を見上げた。「あの石がまた何かしようとしてる。村がおかしくなってる。それをおれは視える。なら、視ないわけにはいかない」
ティナはしばらく黙っていた。それから、深く息を吐いた。
「……あんたってほんと変だよ」
その声にはもう棘はなかった。ただ諦めと、それから――ほんの少しの、いつもの笑いが滲んでいた。
「変なあんたがあんただもんね」ティナは言った。「分かった。けど、あたしここで見てる。何かあったらすぐ、ばあちゃんと村に知らせる。一人で勝手に消えたりしないでよ」
セイルは頷いた。胸の奥が熱くなった。
「ありがとう」
石の前に立った。
半年前、ここですべてが始まった。あの夜、石は独りでに光り、セイルだけがその奥を視た。途方もなく古い、名づけようのない何かを。
今、石は光ってはいなかった。黒ずんだただの石柱。
だが――視た。
目で見るのではない。肌で。皮膚の下のあの感覚で。
石の内側に何かがあった。脈打っていた。ゆっくりと、規則正しく。眠っている獣の寝息のように。あるいは燃えさかる前の熾火のように。半年前一度だけ閃いて静まったものが、今は消えずに内側で燻り続けている。
そしてその脈動が、少しずつ強くなっていた。一打ちごとにほんのわずか。だが確かに。
いつか――この脈がある高さを越えたとき。石はまた光る。今度は一度では済まない。あの夜とは比べものにならない規模で。
セイルにはそれが視えた。覚えたばかりの、この「視る」力で。あのころの自分には、ここまでは視えなかった。ただ光に呑まれただけだった。今は違う。事の奥が視える。
もっと深く視ようとして、セイルはふいに足を止めた。
肌の奥が引かれた。石の脈動に、自分の感覚が同調しかけている。修練で何度か経験したあの感覚。深く視すぎれば、視ている側が視られる側に引きずり込まれる。境が溶ける。戻れなくなる。
セイルはぐっと踏みとどまった。今はここまで。これ以上は、一人で踏み込んでいい深さではない。
額に汗が滲んでいた。
石は変わらず脈打っていた。ゆっくりと、しかし確かに強くなりながら。
間に合うのか、とセイルは思った。あるいはもう間に合わないのか。
斜面の下で、ティナが心配そうにこちらを見上げていた。その向こうに村が沈んでいた。井戸の濁った、家畜の怯えた、自分を気味悪がる、それでも自分の村が。
守らなければとセイルは思った。
逃げるためではなく。向かうために、帰ってきた。それは――もう揺らがなかった。




