帰り着く村
半年ぶりに見る村は何も変わっていないように見えた。
痩せた畑。傾いだ柵。霜の溶けかけた土の道。低く垂れこめた辺境の雲。すべてが出ていったときのままだった。
なのに――肌が騒いでいた。
村に近づくほど、あの細い気配が太くなっていた。村のどこか、いや村はずれの斜面のほう。あの石のあたりから何かがにじみ出している。糸ではもうなかった。薄いけれど確かな流れ。土地そのものがわずかによじれている。
都を出てからずっと薄れていく一方だった肌のざわつきが、この村の手前でまた立ち上がった。辺境の、大陸でいちばん魔力の薄いはずのこの土地で。あってはならぬことだった。
セイルは足を速めた。
村の入口で最初に出会ったのは水汲みの女房だった。
桶を提げて井戸から戻る途中だったらしい。セイルの姿を認めると、その足がぴたりと止まった。目が見開かれる。
「……セイルかい」女房は信じられないものを見るように言った。「あんた中央へ行ったんじゃ」
「帰ってきた」セイルは言った。「ばあちゃんは元気か」
女房は答えなかった。代わりに提げた桶を、無意識のように自分のほうへ引き寄せた。そしてちらりと村はずれの斜面のほうへ目をやってから、またセイルを見た。その目にあの色があった。半年前、村を出ていったときと同じ。気味の悪いものを見るあの目。
いや――半年前より濃かった。
「あんた」女房は声を落とした。「まさか、またあれを……あの石をどうにかしに戻ってきたんじゃないだろうね」
あの石。
セイルは息を呑んだ。
「あれがどうかしたのか」
女房は答えなかった。桶を抱え直すと、逃げるように足早に去っていった。何度も振り返りながら。
村の中を歩くあいだ、セイルはいくつもの異変を視た。
いや視る前に目で見えた。
井戸の脇に、水を汲めずに途方に暮れた人だかりができていた。聞こえてくる声でわけが知れた。井戸の水が濁ってきている。澄んでいたはずの底の水が、ここ幾日かうっすらと淀んでいると。
家畜の囲いでは、羊が囲いの隅に固まっていた。草も食まず、ただ怯えたように身を寄せ合っている。何頭かは地に伏せたまま動かない。乳も出ず子も産まぬと――宿場で聞いたあの噂が目の前にあった。
セイルは囲いの前で足を止めた。
羊たちが怯えている方角。それは井戸の濁りが強いほうと同じだった。そしてその先には――村はずれのあの斜面があった。
偶然ではなかった。何かがあの石を中心に、村へ染み出している。家畜が先にそれを感じ取っている。ものを言えぬ獣のほうが、人より肌が正直なのだ。かつての自分のように。
村人たちはそれを「祟り」と呼んでいるのだろう。そしてその祟りを呼んだ者としてまた自分の名が囁かれるのだろう。半年前と同じように。
だが今度は――間違ってはいないとセイルは思った。気味の悪いことが起きている。それは本当だ。ただ、村人が思うのとはまるで違う形で。
家の戸を開けると霜と煤の匂いがした。
半年前と何ひとつ変わらない匂いだった。土間の冷えも竈の位置も、すべて出ていったときのまま。
竈の前にハルダがいた。背を丸めて火をいじっていた。半年で、その背はまた一回り小さくなったように見えた。
「ばあちゃん」
セイルが声をかけるとハルダの手が止まった。
ゆっくりと振り返る。皺の刻まれた顔がセイルを見上げた。眠そうないつもの気配。だが、その目だけはゆっくりと見開かれていった。
「……セイル」
ハルダはしばらく何も言わなかった。火箸を握ったまま、ただ孫の顔を見つめていた。やがて、その口がわずかに動いた。
「帰ってきたのかい」
「うん」
「向こうで何か――あったのかい」
問いではなかった。ハルダはもう半分は分かっているようだった。孫がただ里心に負けて帰ってくる子ではないことを。あの朝、骨ばった手で送り出したときから。
「うん」セイルは言った。「いろいろあった。……でもそれはあとでいい」
セイルは土間に荷を下ろした。そして、まっすぐにハルダを見た。
「ばあちゃん。あの石がまたおかしくなってるのか」
ハルダの顔からすうっと表情が抜けた。
火箸をそっと脇へ置く。そして痩せた手で、自分の膝を撫でた。何かを確かめるように。
「気づいたのかい」ハルダは低く言った。「やっぱりおまえには視えるんだね」
「あの石のあたりが」ハルダはぽつりぽつりと語り出した。「このひと月ばかりおかしいんだ」
「ひと月」
「家畜が怯える。井戸が濁る。夜になると斜面のあたりがぼうっと――いや、はっきり光るわけじゃない。ただ明るいような気がするんだ。気のせいかと思った。だが、村の年寄りはみんな同じことを言う」
ハルダは節くれだった指で村はずれのほうを指した。
「おまえが村を発った石だよ。あの夜、独りでに光ったあの石。あれが――また何かしようとしてる。あたしにはそう思えてならないんだ」
セイルは黙って聞いていた。
あの夜、石は一度だけ光ってまた黒い石柱に戻った。村を出るとき斜面のてっぺんに見えた、ただの黒ずんだ石。あれがまた。今度は一度では済まないのかもしれない。
「祟りだと村の連中は言ってる」ハルダは声を落とした。「そして、またおまえの名を出す者がいる。あの子が石を起こした。あの子が帰ってきたからまた始まったとね」
ハルダは孫の顔をまっすぐに見た。
「だが、あたしはそうは思わない。おまえが帰ってくる前から石はおかしかったんだ。おまえのせいじゃない。――ただ」
老人は言葉を切った。皺の奥の目がわずかに揺れた。
「ただ、おまえが帰ってきたことと石が騒ぎ出したことが無縁だとも、あたしには思えないのさ」
セイルは何も言えなかった。
石が自分を育んだのか。自分が石を起こしたのか。いつか都の薄暗い研究室で老教授が口にした、あの宙吊りの謎がよみがえった。卵が先か、鶏が先か。村の祖母が、それと同じことを別の言葉で言っていた。
誰も答えを知らない。だが自分とあの石は確かに何かで繋がっている。
それを確かめに帰ってきたのだ。
「ばあちゃん」セイルは立ち上がった。「あの石を視に行く。今すぐ」
ハルダは止めなかった。ただ痩せた手を伸ばして、一度だけセイルの腕に触れた。あの朝、送り出したときと同じ手だった。
「気をつけるんだよ」ハルダは言った。「あれは――昔から畏れるものだと教わってきた。中身は誰も知らない。知らないものに、軽々しく近づくんじゃないよ」
知らないものに。
セイルは頷いた。だがその「知らないもの」のいちばん近くにいるのが自分かもしれないことは口にしなかった。




