下りの道
都の門を出るとき誰も見送りはいなかった。
来たときはヴェントが隣にいた。帰りは独りだった。それでいいとセイルは思った。誰かに別れを告げれば足が鈍る。告げずに発つと決めたのは自分だ。
石畳の大路を抜け都の外へ続く街道に出ると、足の下が踏み固められただけの土に変わった。背の荷は軽い。持って帰るものなどもとから何もなかった。ハルダがためてくれた麻袋の銭がわずかに残っているだけ。それで村までどうにか戻れる。戻れるだけはあった。
歩き出してすぐに気づいた。
来た道を逆に辿るのだと。
あのとき村から上ってきたこの同じ道を。今度は下っていく。
半日も歩くと都の喧噪はすっかり背後へ消えた。
街道はゆるやかに下り始めていた。中央の高みから辺境の低みへ。地図にはそんな勾配は描かれていない。だが、セイルの肌はそれを知っていた。
歩くほどに皮膚の下のあのざわつきが薄れていく。
来たときとは逆だった。あのとき村から離れるにつれ、土地は濃さを増していった。常に薄く肌を撫でていた魔力が、坂を上るように強くなっていった。今はその坂を下っている。一歩ごとに世界が淡くなっていく。
都にいたころは寝ても覚めても肌が騒いでいた。世界でいちばん魔力に満ちた場所。あらゆるものが視えすぎて、視ないことのほうが難しかった。それが今、少しずつ鎮まっていく。
奇妙な心地だった。静かになっていくのに寂しくはない。むしろ肩から重いものが、一枚ずつ剥がれ落ちていくようだった。
ここでは誰も自分を化け物とは呼ばない。観測器とも再来とも。ただの道を行く若者の一人だ。すれ違う旅人はセイルの肌が何を感じているかなど知りもしない。
それが――こんなにも楽だとは。
三日目の夕暮れ峠の宿場に着いた。
往路でヴェントと一夜を過ごした宿場だった。あのとき隊商頭とすれ違いこの時季の峠は冷えると言われた。あれから半年。同じ宿の同じ土間でセイルは独り冷えた粥をすすった。
火のそばで商人らしい男たちが酒を酌み交わしていた。聞くともなしに、その話が耳に入る。中央の景気の話。どこそこの関所で税が上がった話。そして――辺境の話。
「ロウラントのほうは今年は不作だそうだぜ」と一人が言った。「家畜がわけもなく弱るんだと。乳も出ねえ、子も産まねえ。土地が瘦せたかね」
「あんな最果てだ。もとからろくに何も実りゃしねえ」と別の男が笑った。
セイルは粥をすする手を止めた。
ロウラント。自分の生まれた辺境州の名だった。家畜が弱る。わけもなく。
胸の奥で何かが小さく引っかかった。だが、それが何なのかうまく掴めなかった。ただの不作かもしれない。辺境では珍しいことでもない。そう思おうとした。
峠を越えると道は本格的な下りに入った。
ここから先はもう中央の領分ではない。痩せた木立、剥き出しの岩肌、低く垂れこめる雲。見覚えのある辺境の景色だった。肌のざわつきはもう、ほとんど感じられないほどに薄くなっていた。
帰ってきたのだとセイルは思った。半分は。
ふと、村を出る朝のことがよみがえった。村はずれでティナが待っていた。籠も背負わず、ただ朝の風の中に立っていた。
――もし向こうでどうしても駄目になったら。帰ってきてもいいんだからね。あたしはこわがったりしないから。
あのときセイルは目を逸らした。何も言えずに背を向けた。
駄目になった。確かに。都は自分を受け入れなかった。化け物として追い出すか、道具として捕らえるか、そのどちらかしかなかった。
だが――今自分が村へ帰るのは、ティナの言ったような帰り方ではないとセイルは思った。逃げ帰るのではない。負けてすごすごと巣穴に戻るのではない。
自分が何者なのか。あの石が何なのか。それを確かめに帰るのだ。誰かに定義される前に、自分の足で自分の出どころを視るために。
――向こうで何を知っても何になってもおまえはおまえだよ。
ハルダの骨ばった冷たい手の感触がよみがえった。あの朝、確かめるように一度だけ握り直してから離した手。
おまえはおまえ。ティナも同じことを言った。変なあんたがあんた。
二人の言葉だけが、この半年ずっと胸の底に残っていた。都の誰も自分を「ただのセイル」とは見てくれなかった。だが、あの村の二人だけは最初からそう見てくれていた。
会いたいと思った。理由のいる感情ではなかった。
異変に気づいたのは村まであと二日というあたりだった。
肌のざわつきはとうに薄れきっていた。辺境の痩せた土地。何も視えるもののない淡い世界。そのはずだった。
なのに。
歩いているうちに肌の感じがまた変わってきた。
来たときの「濃さ」とは違う。あれは土地全体が一様に帯びる、坂のような濃さだった。これは――違う。一様ではない。前方のずっと先。村のある方角。そこから何かが糸のように細く、こちらへ伸びてきている。
セイルは足を止めた。
肌のある一点だけがざわついていた。村のほうを向くと強くなる。背を向けると弱まる。間違いない。何かが、村の方角からにじみ出している。
覚えのある感覚だった。ずっと昔。あの石が独りでに灯ったあの夜。光の奥を視たときのあの――。
背筋が冷たくなった。
まさかとセイルは思った。あの石が。また。
いや、まだ分からない。遠すぎてはっきりとは視えない。ただ何かが村のあたりで起きかけている。あるいはもう起きている。それだけは確かだった。
不作。家畜がわけもなく弱る。宿場で聞いた話がよみがえった。あれはただの不作ではなかったのかもしれない。
セイルは空を見上げた。辺境の低く垂れこめた雲。その下に生まれ育った村が沈んでいる。
急がなければと思った。
逃げるためではない。今度は向かうためだった。あの糸の伸びてくる先へ。すべてが始まったあの石の前へ。
セイルは荷を背負い直し、薄れた肌のざわつきのただ一点だけが指し示す方角へ足を速めた。
下りの道はもう終わりに近かった。




