崩れる前に
発つ朝はよく晴れていた。
下宿の小さな窓から、朝の光が差し込んでいた。セイルはまとめた荷を傍らに置いて、しばらくその光を見ていた。
半年前、この部屋に入ったときのことを思い出した。ヴェントに連れられて。期待と不安で胸をいっぱいにして。世界でいちばん魔力に満ちた場所でなら、自分のこの感覚が何かになるかもしれない、と。
なった。確かに。だが――その先に待っていたのは、これだった。追われ、誘われ、居場所を失う。
セイルは自分の両手を見た。
この半年で得たものを視た。閉じて、絞って、向ける。半年前にはできなかったことだ。あのころはただ、視えるものに流されていた。視たくもないものが勝手に流れ込んできて、頭が割れそうになって、苦しんだ。
今は違う。意志して視る。視たいものを視たいだけ。垂れ流すのでも、呑まれるのでもなく。それは――力になった。アルヴォを救えた。グレゴルの術を視て逃れた。村ではただの欠陥だったこの感覚が、ここで技になった。
それは確かな収穫だった。
だが、とセイルは思った。
得たものの数だけ、失ったものもあった。
居場所を失った。学問の都に、自分の立つ場所はもうなかった。化け物として追い出されるか。観測器として捕らえられるか。そのどちらかしか。
いや――失ったのは、居場所だけではなかった。半年前の自分も失った。村でただ「視る石みたいな子」と呼ばれていた、あのころの自分。何も知らず、ただ垂れ流して苦しんでいた、あのころの自分。あのころにはもう戻れない。視ることを覚えてしまった。意志して視ることを。竜種化の淵を知ってしまった。知ってしまった者は、知らなかったころには戻れない。
半年で自分は変わった。良くも、悪くも。もう別の何かになりかけていた。
窓辺でセイルは思い返した。
トビー。突き放せなかった友。守るために離れたかったのに、言えなかった。あの不器用な友情だけは、最後まで捨てられなかった。
セレナ。半分だけ届いた理解者。あの帳面に、自分が確かにここにいた証を残してくれた。またね、と言ってくれた。さよならではなく。
オルセン。村へ帰れと諭してくれた師。自分の正体は始まった場所にしかない、と。
ハルダ。おまえはおまえだ、と送り出してくれた祖母。ティナ。帰ってきてもいい、と言ってくれた幼馴染。
みな――半分ずつ、自分に届いてくれた人たちだった。完全には分かってくれない。だが物語に押し込めもしない。岸に立って、こちらを見ようとしてくれた人たち。
セイルは立ち上がった。
荷を背負う。軽かった。持って帰るものなど、もとから何もなかった。ハルダの麻袋の銭がわずかに残っているだけ。それで村まで、どうにか戻れる。
ふと、これまでの半年が、ずっと誰かに動かされ続けた日々だったことに気づいた。
ヴェントに連れられて都へ来た。ダルムに落第と断じられた。グレゴルに狙われた。カインに誘われた。学徒たちに遠ざけられた。――いつも誰かが、自分を動かしていた。追い、誘い、定義し、押しのけた。自分はただ、それに流されるだけだった。受け身で。されるがままに。
だが――今度は違う。
村へ帰る。それは初めて自分の意志で選ぶ道だった。
追われて逃げるのではない。誘われて流されるのでもない。自分から答えへ向かって歩いていく。自分が何者なのかを。あの石が何なのかを。誰かに定義される前に、自分で確かめに。
そのたった一つの能動が、崩れ尽くした足元の上で、初めて自分の足で踏み出す一歩だった。
足元の地面はもうほとんど崩れていた。学問の影。神秘の手。居場所のなさ。すべてが自分の足場を削り取った。だが――崩れ尽くしたその先で、セイルは気づいた。
崩れる足場の上に立ち続けようとするから、苦しいのだ。もう立たなくていい。崩れた足場を捨てて、自分の足で歩き出せばいい。次の場所へ。答えのある場所へ。
セイルは最後にもう一度部屋を見回した。
半年暮らした小さな部屋。期待を抱いて入った部屋。絶望を抱えて出ていく部屋。だが――その絶望のいちばん底で、一つだけ確かなものが芽生えていた。
もう流されない。
誰かの決めた物語の続きにはならない。観測器にも。再来にも。化け物にも。自分は自分の足で、自分の答えを視に行く。それがどんな答えであっても。たとえ恐ろしい答えであっても。
セイルは戸を開けた。
朝の光がまっすぐ差し込んできた。崩れる前に踏み出そう、とセイルは思った。崩れ尽くした足場が完全に消える前に。まだ立てるうちに。自分の足で。
その背を押すものは何もなかった。誰も見送りはいなかった。だが――今度は、それでよかった。誰かに動かされる旅ではないからだ。自分で選んだ、自分の旅だからだ。
セイルは荷を背負い直し、都の門へと足を向けた。霜の匂いのするあの辺境へ。すべてが始まったあの石の前へ。崩れた足場を後にして。自分の足で、答えを視に行くために。




