帰る場所
聴講の席にセイルの居場所はもうどこにもなかった。
演習の組から外され、誰も隣に座らなくなって幾日。学徒たちの目はすっかり変わってしまっていた。竜級を素手で鎮めた化け物。記録に残らぬ連中に狙われている危険な者。近づけば、自分まで巻き込まれる。――誰も口には出さない。だが空席が語っていた。セイルの周りの席だけが、いつもぽっかりと空いていた。
トビーだけは変わらず隣に来た。だがそのトビーにさえ、セイルは言えなかった。お前もおれといると危ない、と。だから近づくな、とも言えなかった。それを言えば、たった一人の友すら失うことになる。
学問の都はもう自分を受け入れてはいなかった。
化け物として追い出すか。観測器として捕らえるか。そのどちらかしかここにはなかった。
オルセンの研究室だけがまだ息のつける場所だった。
その夜もセイルは、薄暗い一室で老教授と向かい合っていた。だがその顔は、いつもより重かった。
「先生」セイルは口を開いた。「おれは、どうすればいい。学問の連中に狙われてる。神秘の連中に誘われてる。ヴェントさんも――もう頼れるか分からない。ここには、おれのいられる場所がない」
オルセンはしばらく黙っていた。それから痩せた手で茶をすすった。
「逃げ場はないだろうな」老人は静かに言った。「グレゴルたちは国家そのものだ。どこへ行っても追ってくる。カインの房は匿ってはくれようが――その代わりに、お前を彼らの物語に縛りつける。どちらも、お前の自由にはならん」
「じゃあ」セイルの声が掠れた。「どうすれば」
「お前はもう気づいているはずだ」オルセンはまっすぐにセイルを見た。「逃げ続けるのでは、何も変わらん。お前が追われるのは、お前が何者か誰にも――お前自身にも分からんからだ。皆がその『分からなさ』に、自分の都合のいい物語を貼りつけようとしている。観測器だ、再来だとな」
セイルは息を呑んだ。
そのとおりだった。グレゴルもカインも、自分の「分からなさ」に群がっていた。自分が何者か分かっていないからこそ、誰もが好きに定義しようとする。
「だったら」オルセンは言った。「自分が何者かを、自分で確かめるしかない。誰かに定義される前に」
「だが」セイルは言った。「どうやって。名残り仮説も境界石の説も、結局分からないままだ」
「文書館の中ではな」オルセンは目を細めた。「だが答えは、文書の中にはない。お前という現象が初めて起きた、その場所にしかない」
その場所。
セイルの頭に村のはずれのあの石が浮かんだ。
「灰櫟村の」セイルは言った。「視る石。あれが、独りでに灯った」
「そうだ」オルセンは頷いた。「考えてもみろ。境界石は大陸に数あれど――独りでに灯る石は、ごく稀だ。そしてよりにもよって、大陸で最も魔力の薄い最果ての村の石が灯った。お前が村を発つ、その前に。――これはただ事ではない」
老人の声が低くなった。
「境界石は、神秘時代の祖型へ通じる古い装置の名残だ。だがその機構は、誰にも解けていない。なぜ薄魔力の地で祖型に通じるのか。なぜある石は灯り、ある石は眠ったままなのか。――その答えのいちばん近くにいるのが、お前だ。灯った石のそばで育ち、その石を灯したかもしれないお前が」
石が自分を育んだのか。自分が石を灯したのか。卵が先か、鶏が先か。――いつかこの同じ部屋でオルセンが言った、あの宙吊りの謎がよみがえった。
「村へ帰れ」オルセンは言った。「すべてが始まった場所へ。あの石の前にもう一度立て。今のお前は、視ることを覚えた。あのころとは違う。今なら――あの石が何なのか。お前が何なのか。視えるかもしれん」
セイルはしばらく考え込んでいた。
村へ帰る。逃げるのではなく。確かめに。誰かに定義される前に、自分で自分の出どころを視るために。
それは――初めて、自分の意志で選ぶ道だった。追われて逃げるのではない。誘われて流されるのでもない。自分から、答えへ向かって歩いていく。
「先生」セイルはふと訊いた。「もし村で何か――おれの想像を超えるものが視えたら、どうすればいい」
オルセンの顔にふと影が差した。
「一つだけ言っておく」老人は声を落とした。「祖型に深く関わる土地には、決して近づいてはならん場所がある。学問も神秘も等しく恐れる場所だ。近づいた者は、記録すら残さず消える。――もしお前の視る力が、そういう場所へお前を導こうとしても。決して踏み込むな。あれはお前一人で触れていいものではない」
セイルはぞくりとした。
オルセンがそれ以上は語らなかった。だがその横顔が語っていた。学問の影も神秘の手も、その彼方に――もっと大きな、触れてはならぬ何かが眠っている。今はまだ遠い。だが、いつか。
「分かった」セイルは言った。「気をつける」
その夜、セイルは下宿でわずかな荷物をまとめた。
ハルダの麻袋の銭は、もうほとんど残っていない。それでも村まで帰れるだけはあった。聴講の籍は捨てることになる。ヴェントが用意してくれた、半年の足場を。だが――その足場はもう崩れていた。とうに。
ふとセレナの顔が浮かんだ。
別れを告げていない。あの研究室の隅で、来る日も来る日も自分の視たものを書き留めてくれた、あの少女に。一人ずつでは届かないものに二人なら手が届くと、目を輝かせた、ただ一人の協働者に。何も言わずに消える。トビーにも。――告げれば、引き止められる。引き止められれば、足が鈍る。それに、と思った。おれが村で何を視るのか、戻ってこられるのかも分からない。巻き込みたくはなかった。せめて置いていくものは置いていく。そう決めた。
書き留められたあの言葉たちは、セレナの手元に残るだろう。それでいい。誰にも視えなかったものが、確かに一度この都で形になった。その証だけは、ここに残していける。
窓の外で都の灯がまばゆく光っていた。
ここへ来たとき、セイルは思った。この世界でいちばん魔力に満ちた場所でなら、自分のこの感覚が何かになるかもしれない、と。
なった。確かになった。だが――それは化け物であり、観測器であり、器であった。誰一人、ただの「セイル」としては自分を見てくれなかった。
帰ろう、とセイルは思った。
霜の匂いのするあの辺境へ。ハルダのいる家へ。すべてが始まったあの石の前へ。
逃げるのではなかった。
今度は自分の足で答えを視に行くのだ。
セイルは荷を背負い、最後にもう一度、まばゆい都の灯を振り返った。
そしてその背を向けた。




