都に残すもの
村へ発つと決めたその日の夜。
セイルは最後に一度だけ、オルセンの研究室に寄った。荷をまとめる前に。あの薄暗い一室で、いつものようにセレナが帳面を広げていた。
セレナは顔を上げた。そして――セイルのいつもと違う何かをすぐに察した。
「どうしたの」セレナは静かに訊いた。「その顔。何かあったのね」
セイルは答えに詰まった。
村へ帰る。そう言おうとして――言えなかった。言えば、別れになる。それを口にするのが怖かった。
「いや」セイルは目を逸らした。「ちょっと考えごとを」
セレナはしばらくセイルを見ていた。その目がいつもの、観察する目になった。視えないものを、それでも輪郭を取ろうとする、あの誠実な目に。
「嘘ね」セレナは静かに言った。「あなたは嘘が下手だから。――でも、言いたくないなら訊かない。ただ」
セレナは帳面を閉じた。
「その帳面」セイルはふと訊いた。「まだ続けてるのか」
「続けてるわ」セレナは頷いた。「あなたが視たものを、全部ここに書き留めてる」
その帳面には半年分の二人の仕事が詰まっていた。
セイルが視たものを言葉にする。それをセレナが聞いて、書き取る。数式に、図に、文章に。視えない流れを、なんとか紙の上に写し取ろうと。一人ではできないことだった。セイルには視えても書けない。セレナには書けても視えない。二人で初めて、視えないものに輪郭が与えられた。
誰にも視えなかったものが、この地味な帳面の中で、確かに一度形になっていた。
「これはね」セレナは帳面を撫でた。「たぶん、世界で初めての記録なの。あなたみたいに視る人が視たものを、こうやって外から記述した記録は。――公理院には出せない。証明できないから。でもいつか。いつかこれが、何かの役に立つかもしれない」
セイルはその帳面を視た。
セレナの流れを。閉じて、絞って、向けて。
視えた。セレナの内側の流れはまっすぐで、誠実だった。グレゴルの計器のような冷たさとも、カインの甘い誘いとも違う。ただ、分からないものを分からないまま放置できない。そのまっすぐな誠実さが、彼女の流れを満たしていた。
だが――その流れの奥にも、届かなさがあった。
セレナは半年、自分の視たものを書き取ってきた。だがそれでも――彼女自身は視えていなかった。一度も。自分が何を視ているのか。その本当のところは、セレナには最後まで視えない。言葉にできても、輪郭を取れても、その芯のところには届かない。
半分だけ届いていた。半分は永遠に届かないまま。
「セレナ」セイルは低く言った。「もし――おれがいなくなっても、その帳面、続けてくれるか」
セレナの手が止まった。
「いなくなる?」セレナは鋭くセイルを見た。「どこかへ行くの。――そういうことなのね、さっきの顔は」
セイルは答えなかった。だがその沈黙が答えだった。
セレナはしばらく黙っていた。それからふっと目を伏せた。
「行き先は」セレナは訊いた。「訊いても教えてくれないんでしょう。巻き込みたくないとか、そういう理由で」
図星だった。セイルは何も言えなかった。
「いいわ」セレナは静かに言った。声に寂しさが滲んでいた。だが引き止める響きはなかった。「訊かない。あなたがそう決めたなら。――でも、一つだけ言わせて」
セレナはまっすぐセイルを見た。
「私は最後まで、あなたが何を視てるのか分からなかった」セレナは言った。「半年一緒に仕事をして、あなたの言葉を書き取って。それでも――視えなかった。あなたの視る世界は、私には永遠に届かない場所にある。それが――悔しい。すごく」
セレナの声がわずかに震えた。
「でも」セレナは続けた。「分からないなりに、私は書き取った。あなたが確かに何かを視ていたってことだけは、この帳面が証明してる。あなたが化け物でも観測器でもなく――何かを視る一人の人間だったってことを。それだけは私がここに残す。あなたがいなくなっても」
セイルの胸が熱くなった。
誰にも理解されない。それは変わらなかった。セレナにも最後まで視えなかった。半分は永遠に届かない。だが――その半分だけでも、届こうとし続けてくれた者がいた。分からないなりに、書き取り続けてくれた者が。
それがこの帳面だった。自分が確かにここにいたという証。誰にも視えなかったものが一度形になったという証。
「ありがとう」セイルは言った。それしか言えなかった。
別れを告げる言葉も、行き先を教える言葉も、どちらも言えずに。ただその半分だけ届いた理解を、受け取ることしか。
「またね」
セレナは最後にそう言った。
さよならではなかった。またね、と。まるで明日も、ここで会えるかのように。
それがセレナの優しさだった。別れを別れにしない。いつかまた会える、と。そう信じているかのように。あるいは――そう信じたいと、願うように。
「ああ」セイルは頷いた。「……またな」
嘘かもしれない、と思いながら。村で何を視るのか。戻ってこられるのかも分からない。それでも、その「またね」を嘘にしたくはなかった。
研究室を出るとき、セイルは一度だけ振り返った。セレナはまた帳面を広げていた。自分の視たものが書き留められた、その帳面を。これからも続けるのだろう。自分がいなくなっても。
研究室の扉を閉めて、セイルは薄暗い廊下を歩いた。
都に残していくもの。トビーの不器用な友情。セレナの半分だけ届いた理解。そしてあの帳面。誰にも視えなかったものが確かに一度この都で形になったその証。
それだけはここに残していける、とセイルは思った。自分が消えても。記録に残らなくても。あの帳面の中に。セレナの手元に。自分が確かにここにいた証が。
足元の地面はもうほとんど崩れ尽くしていた。学問の影。神秘の手。居場所のなさ。だが――その崩れた足元の上にも、たった二つ、トビーとセレナという温かいものだけは、最後まで残っていた。
それを置いて発つ。守るために。巻き込まないために。
その別れの重さを抱えて、セイルは下宿への道を歩いた。明日村へ発つために。都に温かいものを残したまま。




