空いた席
演習の朝、掲示された組分けに、セイルの名はなかった。
実地演習は三人一組で術式を組む。聴講生もその輪に加わるのが慣わしだった。だが貼り出された名簿の、どの組にもセイルの名は見当たらなかった。代わりに欄外に、小さくこう書かれていた。
「ロウラント――個別対応」
個別対応。
その四文字が何を意味するかは、誰の目にも明らかだった。組ませる相手がいない。いや――組ませてはならないと、誰かが決めたのだ。
演習を取り仕切る講師は、セイルを廊下に呼び、目を合わせずに言った。
「君は魔力を流せないだろう。万一、術式の暴発があったとき――君を守りきれない。安全上の措置だ。悪く思わんでくれ」
もっともらしい理屈だった。表向きは。
だがセイルには視えていた。講師のその言葉の裏で、流れが後ろめたく揺れているのが。本当の理由は安全などではなかった。組ませれば、ほかの聴講生が嫌がる。親が抗議する。化け物と机を並べさせるな、と。――その圧に、講師は屈したのだ。
「分かりました」セイルはそれだけ言った。
怒りは湧かなかった。ただ深い疲れだけがあった。
講堂に戻ると、学徒たちがめいめいの組で、賑やかに術式を組み始めていた。
その輪のどこにも、セイルの入る隙はなかった。一人、隅の席に座った。周りの席はぽっかりと空いていた。誰も近づこうとはしなかった。
ふとセイルは思った。
もしあの男がまだここにいたら。
アルヴォ・ゼーゲル。同じ年頃の俊英。セイルを目障りな化け物と敵視し、ことあるごとに突っかかってきた。だが――あの男だけはセイルから逃げなかった。化け物と罵りながらも、同じ土俵に立とうとした。張り合おうとした。
今はもういない。学問のいちばん深い影に堕ちて姿を消した。
敵すらいない。罵ってくる者すら、いなくなった。それは孤独の中でも、もっとも底の孤独だった。
「セイル」
声に顔を上げる。トビーが自分の組を抜けてこちらへ来るところだった。
「やめろ」セイルは思わず言った。「お前は自分の組に戻れ」
「いいんだよ、別に」トビーは無理に笑った。「こっちの組、一人余ってるし。なあ、おれと――」
だがその言葉は続かなかった。
トビーのもといた組の二人が、露骨に顔をしかめ、何かを囁き交わしていた。そしてトビーが戻ってこないと見るや、講師に何か訴えに行った。ほどなく講師が足早にやってきた。
「レーン君」講師はトビーに言った。「君は、自分の組に戻りなさい。ロウラント君は個別対応だ」
「でも――」
「戻りなさい」
声に有無を言わせぬ響きがあった。トビーは唇を噛み、それからすまなそうにセイルを見た。
「……ごめん」トビーは小さく言った。「おれ、何もできない」
「謝るな」セイルは言った。
本当にそう思った。トビーは何も悪くない。むしろ――この期に及んで隣に来ようとしてくれた、たった一人の人間だ。
だがその優しさが、トビーを危うくする。庁の影に弱みと名指しされた。おれといれば、トビーまで巻き込まれる。
突き放さなければならない。トビーのために。――そう頭では分かっていた。だが口はそれを言えなかった。お前もおれといると危ない、近づくな、と。それを言えば、本当に独りになる。たった一つ残った温かいものを、自分の手で消すことになる。
結局セイルは何も言えず、ただトビーを自分の組へ戻らせた。
一人隅の席に取り残された。
演習が進んでいく。学徒たちの唱える術式の声。組み上がっていく整然とした流れ。その賑やかな光景を、セイルは遠い場所から眺めているようだった。
ガラス一枚隔てた向こう側。手を伸ばしても届かない。
ふとカインの最後の言葉がよみがえった。
狭間に立ち続けることはどちらかの淵に堕ちるよりもずっと孤独だ。
その通りだった。学問に堕ちれば、グレゴルの道具として、居場所はある。神秘に堕ちれば、カインの器として、迎えられる。どちらかを選べば――このガラスのこちら側から出られる。
だが選ばなかった。選べなかった。だから独りだ。
誰にも理解されないまま。誰の物語にも乗らないまま。たった独りで。
演習が終わり、学徒たちが引けていく頃。
セイルは一人、講堂を出た。向かう先は一つしかなかった。
オルセンの研究室。あの薄暗い本と埃の匂いのする小さな一室。学問の都でただ一つまだ息のできる場所。
廊下を歩きながら、セイルはふと思った。
ここはもう自分のいるべき場所ではないのかもしれない。
その思いはまだ形になりきっていなかった。だが、足元の地面がまた一段崩れたその感触だけは――はっきりとあった。




