甘い淵
カインは待っていたかのように現れた。
グレゴルに追われたあの夜から、幾日かが過ぎた頃だった。ヨナが「鍵守が会いたがっている」と告げて去って、幾晩か。セイルが下宿の戸を開けると、暗がりにあの穏やかな目が立っていた。隣にはそのヨナもいる。相変わらず不機嫌そうな顔で。
「災難だったね」カインは静かに言った。「学問の影の連中に、追われたそうだ」
なぜそれを知っている。問おうとして、セイルはやめた。この男たちもまた、自分を見張る目をどこかに持っているのだ。学問の影も。神秘の手も。誰もが自分を見ている。
「言ったはずだ」カインは続けた。声に勝ち誇る色はなかった。むしろ痛ましむような響きさえあった。「学問はあなたを測れない。物差しに乗らないものを、あの人たちは無いことにするか――道具にするか、どちらかしかできないと」
その言葉が昨夜のグレゴルの目をよみがえらせた。
人を人として見ていなかった、あの目。一個の解くべき式として値踏みしていた、あの眼差し。生きた観測器。道具。――カインの言ったとおりになっていた。
「私たちのところへ来なさい」カインは手を差し伸べた。「房はあなたを匿える。学問の影も、私たちの結界の内には手を出せない。そして――私たちはあなたを道具になどしない。人として。いや、それ以上の者として迎える」
「それ以上の者」セイルは繰り返した。
「失われた接続者の再来として」
その言葉にセイルの心がざわついた。
甘かった。抗いがたいほど甘かった。学問の都で化け物と畏れられ、今や実験体として狩られる身。そんな自分を「尊い」と言い、「人として迎える」と言い、結界で守ると言う。差し伸べられた手の、その温かさは本物に思えた。
肌のざわつきが、カインの周りの流れを捉えていた。あの血の匂いのする、古く重い神秘の力。だが今はそれが、嫌な感じだけではなかった。むしろ――こちらへおいで、と誘うように優しく脈打っていた。
一歩踏み出せば。
あの淵の向こう側へ。誰にも理解されない孤独から、解き放たれる。自分を「視る者」として敬う者たちの、その中へ。
セイルの足がわずかに前へ出かけた。
「待てよ」
声を上げたのはヨナだった。
カインがちらとヨナを見た。ヨナはその視線にひるみながらも続けた。
「カインさん。あんたまた言ってる。再来、再来って」ヨナの声は震えていた。師に逆らうことの恐れで。「おれは……前にも思ったんだ。こいつは誰かの生まれ変わりなんかじゃない。こいつはこいつだ。なのに再来って物語に押し込めるのは――」
「ヨナ」カインの声が静かに鋭くなった。「お前はまだ分かっていない。彼がどれほどのものか」
「分かってるよ!」ヨナは叫んだ。「分かってるさ。おれが一生かけても届かない才を、こいつが生まれつき持ってる。それくらい嫌になるほど分かってる。――でも、だからって」
ヨナはセイルを見た。羨望とそれから奇妙な誠実さの混じった目で。
「だからって、こいつをおれたちの『希望』の物語に使っていいわけじゃないだろ」
部屋に沈黙が落ちた。
カインはしばらくヨナを見つめていた。それからふっと息を吐いた。
「お前は優しいな」カインは言った。穏やかな声だった。だがその奥に、揺るがぬ苛烈さがあった。「だが優しさだけでは神秘は守れない。学問がすべてを呑み込もうとしている。竜級を、命を、祖型そのものを、定理の檻に入れようとしている。それを止めるには――器が要る。失われた力をもう一度この世に灯す、器が」
器。
その言葉にセイルははっとした。
グレゴルは自分を「観測器」と呼んだ。カインは今「器」と言った。
言葉は違う。温度もまるで違う。だが――根のところで、同じものを指していた。自分という一人の人間を、何かのための入れ物として。
「あんたも」セイルはかすれた声で言った。「おれを、ただの『セイル』としては見てないんだな」
カインの動きが止まった。
「学問は」セイルは続けた。自分でも震える声で。「おれを道具にする。あんたはおれを器にする。どっちも――おれを、何かのために使おうとしてる。おれが何を視て、何のために視るか。それを決めるのは、あんたたちじゃない」
「では」カインは静かに問うた。「君は誰だ。学問にも神秘にも与しない。では君は、一体何者になるつもりだね」
セイルは答えられなかった。
分からなかった。学問の影に追われ、神秘の手に誘われ、そのどちらにも丸ごとは与せない。では自分は何者なのか。どこに立てばいいのか。
その答えはまだどこにもなかった。
だが――一つだけはっきりしていることがあった。
「分からない」セイルは言った。「おれが何者かは、まだ分からない。でも――誰かの決めた物語の続きにはならない。再来にも。観測器にも。おれは、おれの視たいものを視る」
カインは長いあいだセイルを見つめていた。
やがて彼は差し伸べていた手をゆっくりと下ろした。
「……そうか」カインは言った。落胆とも感心ともつかぬ声だった。「惜しいことだ。だが――覚えておくといい。狭間に立ち続けることは、どちらかの淵に堕ちるよりもずっと孤独だ。君はいつか、その孤独に耐えきれなくなる。そのときは――いつでもおいで。鍵は開けておく」
カインは踵を返した。ヨナが最後にちらとセイルを見た。その目には、安堵のような、寂しさのような、複雑なものが浮かんでいた。
二人は夜の闇に溶けていった。
一人残されたセイルは自分の両手を見た。
甘い淵は口を閉じた。だがその甘さは、まだ肌に残っていた。あと一歩で踏み出すところだった。守られ、敬われ、孤独から解き放たれる、その淵へ。
断った。けれど――カインの最後の言葉が、棘のように刺さっていた。
狭間に立ち続けることはどちらかの淵に堕ちるよりもずっと孤独だ。
そのとおりだ、とセイルは思った。学問に堕ちれば、道具として居場所がある。神秘に堕ちれば、器として迎えられる。どちらかを選べば――この耐えがたい孤独からは逃れられる。
狭間に立ち続ける。それは誰にも理解されないまま、独りで立ち続けるということだった。
窓の外で都の灯がまばゆく光っていた。学問の影と神秘の手。その二つに挟まれて、自分の立つ場所だけが、どんどん狭く、頼りなくなっていく。
足元の地面がまた一段崩れた気がした。




