神秘の値
ヨナがまた訪ねてきたのはその数日後だった。
今度は夜の人気のない河岸だった。監視の目の届かぬ場所を選んだのだろう。ヨナはいつものように、ぶっきらぼうに言った。
「カインさんが来る前に、お前に見せときたいものがある。――来るか」
ヨナに連れられて、セイルは夜の都の裏のほうへ入っていった。
以前一度案内されたあの房の近くだった。だが今夜は房の中へは入らなかった。ヨナはその手前の暗い路地で足を止めた。
「ここでいい」ヨナは低く言った。「中までは連れていかない。お前はまだ徒じゃないからな。――ただ、見てほしいんだ。あそこに入るってことが、どういうことか」
路地の奥にあの古びた建物があった。表からはただの空き家。その地下に房がある。蝋燭の灯りに照らされた温かい地下室が。
「あそこは」ヨナは言った。「確かに温かい。学問に弾かれた者を、測らずに迎えてくれる。お前のままでいい、と言ってくれる。――それは嘘じゃない。おれが保証する」
「でも」セイルはその口ぶりに引っかかった。「何かあるんだろう。あんたが、わざわざ見せたいものが」
ヨナはしばらく黙っていた。それから低く言った。
「秘匿の戒ってのがある」ヨナは言った。「房は資格のない者には開かない。中で見たことを外に漏らせば――命はない。だから一度徒になったら、もう外の世界とは切れるんだ。学院にも戻れない。元の暮らしにも。家族がいれば、家族とも。神秘を守るために、すべてを捨てて。地下に潜る」
セイルはその言葉を聞きながら、房の地下室を視た。
閉じて、絞って、向けて。
視えた。あの温かい地下室に集う者たちの流れが。確かに温かかった。寄り添い、信じ合うその流れは。だが――その一人一人の流れの奥のほうに、何か切れた痕のようなものが視えた。
糸を断ち切った痕。
外の世界と繋がっていた糸を。学院との、家族との、元の暮らしとの糸を。それを自ら断ち切って、この地下室に潜った者たち。その断ち切った痕が、一人一人の流れの奥に、傷のように残っていた。
「おれも」ヨナがぽつりと言った。「家があった。交易町の小さな薬種屋だ。父も母もいた。――でも神秘に入るとき、捨てた。会いに行くこともできない。おれがここにいることを知られたら、家族まで危なくなる。だから――切った。きれいに」
ヨナの声に痛みが滲んでいた。
「後悔はしてない」ヨナは続けた。「ここがおれの居場所だ。学問に弾かれて行き場のなかったおれを、拾ってくれた。その恩は本物だ。――でも。タダじゃなかった。居場所をもらう代わりに、外のすべてを捨てた。それが――神秘の値だ」
セイルは息を呑んだ。
学問の都で誰も言ってくれなかった言葉。お前のままでいい。神秘はそれを言ってくれる。測らずに迎えてくれる。甘い、と思った。あまりに甘い、と。
だが――その甘さには値がついていた。
房に入れば、グレゴルの影からは逃れられる。結界が守ってくれる。化け物と畏れられることもなくなる。測られることも、狙われることも。――その代わりに、外のすべてを捨てる。トビーとも切れる。セレナとも。オルセンとも。ハルダとも。村とも。二度と会えない。地下に潜って、神秘を守るその務めに生涯を捧げる。
居場所と引き換えに、自由を差し出す。
「なんで」セイルは低く訊いた。「これをおれに見せたんだ。あんたたちの側に、来てほしいんじゃないのか」
「分からない」ヨナは目を逸らした。「カインさんはお前を欲しがってる。再来だって。おれも――お前が来れば、心強いとは思う。でも」
ヨナはセイルを見た。羨望と誠実さの混じったあの目で。
「お前を騙して入れたくはない」ヨナは言った。「甘い言葉だけ聞かせて、値のことを隠して。それは――卑怯だ。お前は知った上で決めるべきだ。神秘に入るってのはこういうことだ、ってのを。――おれは知らずに入った。後悔はしてない。けどもし知ってたら、もう少し覚悟して入れたと思う」
セイルはヨナのその不器用な誠実さを視た。
嘘はなかった。ヨナは自分を神秘へ引き込もうとはしていなかった。むしろ――正直に、その値を見せていた。甘さの裏にある不自由を。居場所の代わりに差し出すものを。
ありがたい、とセイルは思った。そして――同時に退いた。
学問は自分を道具にする。神秘は自分を匿う。だが匿われる代わりに、すべてを捨てさせる。どちらも――自分の自由にはならなかった。学問の檻と神秘の地下。形は正反対だった。だがどちらも、自分を一つの場所に閉じ込めるものだった。
「教えてくれて」セイルは低く言った。「ありがとう。――あんたは、正直だ」
「礼はいい」ヨナはぶっきらぼうに言った。「ただ……カインさんが来たら、よく考えて決めろよ。あの人はいいことしか言わない。値のことは言わない。だから――おれが先に言っといた」
ヨナと別れて、セイルは一人、夜道を歩いた。
神秘の値。居場所と引き換えの自由。その重さが胸に残っていた。カインは近いうちに来る。甘い言葉を携えて。お前を人として迎える、と。再来として敬う、と。
その言葉はきっと甘いだろう。あの地下室のように温かいだろう。だが――その甘さの裏に、ヨナの見せたあの断ち切られた糸の痕がある。それを知ってしまった今、もう甘さだけには酔えなかった。
窓辺の灯りがぽつぽつと夜の都にともっていた。あの灯りの一つ一つの下に、家族がいて、暮らしがある。ヨナが捨てたもの。自分も神秘に入れば捨てるもの。
足元の地面がまた一段崩れた気がした。学問の影が追ってくる。神秘の手が招いている。そのどちらも――立てば自分を自分でなくする淵だった。崩れる足元の上で、立てる場所がまた一つ消えた。神秘というその場所が。甘く見えたその淵が。値を知った今、もう安らかな逃げ場ではなくなっていた。




