唱えるしかない魔法
その若者は橋のたもとで待っていた。
監視の目をどうすり抜けたものか。下宿を出たセイルが人気のない裏路地に入ったとたん、肌の別の場所がざわついた。冷たい学問の流れとは違う、古く重い、血の匂いのする気配。屋根の上で一度よぎった、あの影。
振り返ると、ヨナが立っていた。相変わらず不機嫌そうな顔で。だがその目には、こちらを案じるような奇妙な色も混じっていた。
「……よう」ヨナはぶっきらぼうに言った。「ひどい顔だな。学問の連中に追い回されてるって?」
「あんたたちも」セイルは警戒を解かずに言った。「おれを見張ってるんじゃなかったのか」
「見張ってるわけじゃない」ヨナはむっとした顔で言った。「鍵守が……カインさんが心配してるんだ。学問の影にお前が潰されちまうんじゃないかって。だから、様子を見てこいって」
セイルは答えなかった。だが肌のざわつきは、ヨナの言葉に嘘がないことを告げていた。この若者の流れはまっすぐで、淀みがなかった。グレゴルの計器のように冷たい流れとも、ヴェントの迷いに濁った流れとも違う。
「お前さ」ヨナはふいに声を落とした。「学問に弾かれたんだろ。落第したって聞いた」
「……ああ」
「おれもだ」ヨナは川面に目を逸らした。「魔力は人並み以下。術式をいくら暗記しても発動しない。教官に笑われた。お前のような者がいるから、院の質が落ちるってな。――居場所がなかった。どこにも」
「神秘に拾われた」ヨナは続けた。「黒鍵の徒に。あそこは魔力の多寡で人を測らない。お前はお前のままでいい、と言ってくれた。――おれが初めて人として扱われた場所だ」
その言葉がセイルの胸の奥に触れた。
お前はお前のままでいい。――学問の都で誰一人言ってくれなかった言葉。化け物。観測器。器。誰もが自分を、何かのための入れ物として見た。だが神秘の側は違うのか。測らず、ただ受け入れるのか。
甘い、とセイルは思った。あまりに甘い響きだった。
「見せてやろうか」ヨナがふと言った。「おれたちの魔法を」
ヨナは足元の枯れかけた一輪の草に手をかざした。
そして低く何かを唱えた。
それはセイルの知らない言葉だった。テオレマの標準語ではない。学院で学徒たちが長々と朗読する、あの術式の言葉ともまるで違う。もっと古く、短く――喉の奥から絞り出すような響き。意味は分からない。だがその音そのものが、何かに直に触れているようだった。
肌がざわついた。
セイルは視た。閉じて、絞って、向けて。
視えた。学問の術式が整然と組み上げる、あの幾何学的な流れとはまるで違った。ヨナの言葉は――遠い深いどこかへ、まっすぐに一本の糸を垂らしていた。そしてその糸の先から、何かが汲み上げられてくる。
枯れかけた草がふっと緑を取り戻した。
ただそれだけの小さな術。だがヨナの額には、汗が滲んでいた。短い言葉一つに、ずいぶんと消耗したように。
「書けない」ヨナは息を整えながら言った。「この言葉は紙に書き写せない。書いた瞬間、ただの死んだ文字になる。声でしか伝わらない。師から弟子へ。それだけだ」
「だから」セイルは呟いた。「学問の連中には捕まえられないのか。記録に残せないから」
「そういうことだ」ヨナはかすかに笑った。「あいつらは書けるものしか信じない。書けないものは無いことにするか――無理やり書こうとして、壊す。お前を追ってるのも同じだろ。お前って『現象』を、術式に書き下ろそうとしてる」
その通りだった。グレゴルのあの目。一個の解くべき式として、自分を値踏みしたあの眼差し。
神秘は書こうとしない。ただ声で受け取ろうとする。――その違いが、セイルの揺れる足元に妙に深く染みた。
「なあ」ヨナはふいに真顔になった。羨望と、それから奇妙な誠実さの混じった顔で。「お前さっき、おれの魔法を視てただろ。流れを辿ってた」
「……ああ」
「おれは」ヨナは苦しそうに言った。「神秘を何年も修めてる。信じて、祈って、唱えて。それでもお前みたいには視えない。お前は何の修行もなしに――生まれつき、それを持ってる」
その声に、隠しきれない羨望が滲んでいた。努力では届かないものを、生まれつき持つ者への。
「分からないんだ」ヨナは絞り出すように言った。「なんでお前なんだ。なんで神秘を選びもしないお前が、おれたちの誰よりも――祖型に近いんだ」
セイルは答えられなかった。それは自分自身がいちばん知りたいことだった。
「カインさんが」ヨナは立ち上がりながら言った。声には複雑なためらいがあった。「お前に会いたがってる。近いうちに訪ねる、と。――断ることもできる。でもたぶん、あの人は引かない」
「あんたは」セイルは訊いた。「おれに来てほしいのか」
ヨナはしばらく黙っていた。それから目を逸らした。
「分からない」ヨナは言った。「お前が来れば、おれの居場所が……いや。そういうことじゃない。ただ――お前をまた誰かの『物語』に押し込めるのは、見たくない。学問にも。神秘にも。お前はお前だろ」
そう言い残すと、ヨナは古い言葉をひと言呟いた。
そして夜の闇にすっと溶けていった。学問の影が決して書き写せないその足取りで。
後に残されたセイルの足元で、さっき緑を取り戻した草が、夜風に静かに揺れていた。




