守れない友
灰色の男に家のことを訊かれたあの翌日。
トビーはいつもより静かだった。
昼の学院の中庭。いつもなら軽口を叩きながら隣に来るトビーが、その日はぼんやりと噴水の縁に座っていた。セイルが近づくと、ふと顔を上げた。
「よお」トビーは無理に笑った。「昨日は……驚いたな。あの、灰色の男」
「すまない」セイルは低く言った。「お前を巻き込んだ」
「いいって」トビーは首を振った。だがその手がわずかに震えていた。「ちょっと家のことを訊かれただけだ。なんてことない」
なんてことないと言いながら、トビーの顔色は悪かった。
セイルには視えた。トビーの内側でせめぎ合うものが。あの男に家のことまで調べ上げられた恐怖。逆らえば自分もどうなるか分からない、という怯え。それは本物だった。トビーは怖がっていた。当然だった。あんな得体の知れない影に目をつけられたのだ。
だが――その恐怖の奥に、もう一つ別のものがあった。
「なあセイル」トビーがふいに言った。「おれ、ずっと考えてたんだ。昨日から」
「何を」
「お前、おれに近づくなって言いたいんだろ」トビーはまっすぐセイルを見た。「おれがお前の弱みになるって。おれといるとお前がもっと狙われやすくなる。逆におれも、お前といるとあの連中に目をつけられる。――だから離れろって。そう思ってるんだろ」
セイルは言葉に詰まった。
図星だった。まさにそれを言おうとして、言えずにいた。
「……ああ」セイルは認めた。「思ってる。お前のために、離れたほうがいい」
「やだね」
トビーは即座に言った。
セイルは目を見開いた。
「やだって」セイルは言った。「お前、分かってるのか。あの連中は本気だ。おれを捕まえようとしてる。記録にも残らない、法の外の連中だ。お前まで巻き込まれたら――」
「分かってるよ」トビーは遮った。声が少し大きくなった。「怖いさ。昨日あの男に訊かれて、心臓が止まるかと思った。家のことまで調べられて。――正直、震えが止まらなかった。今だって怖い」
トビーは自分の震える手を見た。それから握りしめた。
「でも」トビーは続けた。「だからって、お前を一人にするのは、もっと嫌なんだ」
セイルはその言葉に胸を突かれた。
トビーの内側を視た。恐怖は本物だった。だが――その恐怖を上回る何かが、そこにあった。意地でもなかった。義理でもなかった。ただ単純な、まっすぐな思いだった。
友達を一人にしたくない。
それだけのことだった。それだけのことのために、トビーは自分の恐怖を押し殺そうとしていた。
「お前さ」トビーはぎこちなく笑った。「中央に来てずっと独りだったろ。村でもそうだったって言ってたよな。誰も隣に来なかったって。――おれ、それ聞いたとき、なんかほっとけなくなったんだ。だから最初に声かけた。深い考えなんてなかった。ただ独りで飯食ってる奴がいたから」
トビーは噴水の水面を見た。
「今さ、お前を突き放したら、おれ最初に声かけた意味がなくなる。怖いから離れますって。それじゃおれ、ただの――都合のいいときだけの友達だ。そんなの嫌なんだよ」
セイルは何も言えなかった。
突き放さなければならない。頭では分かっていた。トビーを守るために。あの影から遠ざけるために。今ここではっきりと言うべきだった。お前とはもう関わらない、と。冷たく。決定的に。そうすればトビーは傷つくだろうが――少なくともあの影の標的からは外れる。
だが――口がそれを言わなかった。
言えば本当に独りになる。村でも中央でも遠巻きにされてきた自分に、たった一人、まっすぐ隣に来てくれたこの男。それを自分の手で突き放す。守るという名目で。たった一つ残った温かいものを、自分から消す。
それが――できなかった。
「セイル」トビーが言った。「何も言うな。お前がおれを突き放したいのも、それがおれのためだってのも、分かってる。――でもおれは勝手に隣にいる。お前が何を言っても、だ。それはおれが決めることだ。お前が決めることじゃない」
その言葉は優しく、そして残酷だった。
トビーは自分で決めて、危険の中に留まろうとしていた。セイルがいくら守ろうとしても、その意志だけは奪えなかった。守るために突き放そうとしても、トビーが勝手に戻ってくる。そのまっすぐさが――かえってセイルを苦しめた。
守れない、とセイルは思った。この男を。突き放しても戻ってくる。受け入れれば巻き込む。どちらにしても、トビーを危険から守ることができない。
視えるのに。トビーに迫る危険が。はっきりと視えるのに、それを防ぐ手立てだけがどこにもなかった。
「……ありがとう」
セイルは結局それしか言えなかった。
突き放す言葉も、受け入れる言葉も、どちらも言えずに。ただその不器用な友情を、受け取ることしか。
トビーはふっといつもの軽い笑みを浮かべた。
「礼なんかいいよ」トビーは立ち上がった。「ほら、次の講義行くぞ。――お前が隅で独りで視てる横で、おれは相変わらず寝てるからさ」
そのいつもの軽さが、今はひどくありがたく、そしてひどく危うかった。
セイルはトビーの背を追って歩き出した。守れない友を隣に置いたまま。突き放せないまま。崩れていく足元の上で、たった一つ残った温かさだけは、まだ手放せずに。
その温かさがいつか、トビーを傷つけるかもしれない。それを視ながら、それでも手放せなかった。それが――自分の弱さだった。隔絶に慣れたはずの自分の、いちばん柔らかいところに残った、たった一つの弱さだった。




