値踏みの後で
脱出したその夜は。
一睡もできなかった。
下宿の固い寝床の上で、セイルは何度もあの路地の術式を思い返していた。四方から網のように閉じてきた捕縛の術。そのほつれ。左の男の足元の薄い隙間。あそこをすり抜けた。間に合った。あと少し視るのが遅ければ。
助かった。だが――その「助かった」がなぜか少しも安堵にならなかった。
あの男は、とセイルは思った。
グレゴル・ザイン。本気で捕らえる気はなかったのではないか。
思い返すほど、そう思えた。あの男は四方を囲んでいた。逃げ場はなかった。それなのに――左の隙間だけがわずかに薄かった。まるで、そこから逃げてみろと言わんばかりに。
そして自分がその隙間をすり抜けたとき、あの男の声はこう言った。視えているのか、と。驚きと――歓喜の混じった声で。想像以上だ、と。
捕らえ損ねた者の声ではなかった。あれは――試した者の声だった。獲物がどこまで視えるのか。どこまで逃げられるのか。それを確かめて、そしてその結果に満足した者の。
ぞくりと背筋が冷えた。
次は、とセイルは思った。
次は本気で来る。今夜はただの品定めだった。自分の力が確保するに値するか。実験体として使えるか。それを測っただけだ。そして合格してしまった。誰よりも深く視える、と。
逃げ切ったのではない。値踏みを終えられたのだ。
その違いが何より恐ろしかった。逃げ切ったのならまだ希望がある。次も逃げられるかもしれない、と。だが値踏みを終えられたのなら――もう向こうの手の内だった。いつ、どこで、どう確保するか。それを決めるのは向こうだった。自分はただ、その時を待つしかない。
翌朝セイルはヴェントを訪ねた。
一人で抱えるには重すぎた。あの値踏みの意味を。
「あの男は」セイルは低く訊いた。「おれをどうする気なんだ。本気なら昨夜捕らえられたはずだ。なのにしなかった。なんで」
ヴェントの顔がこわばった。
「……急いでいないのだ」ヴェントは低く言った。「あの連中は。お前は逃げられないと確信している。だから急がない。じっくりと、いちばん確実な機会を待つ。お前が孤立し、頼る者を失い、逃げ場を完全になくすのを」
セイルは息を呑んだ。
「逃げられないって」セイルは言った。「都を出ればいい。村へでもどこへでも」
「無駄だ」ヴェントは首を振った。声に苦いものが滲んでいた。「あの連中は国家だ。第七――いや、名は言うまい。とにかく共和国の奥にいる。どこへ逃げても追ってくる。地方の魔法院にも、関所にも、街道の宿にも、彼らの目はある。そして――何より恐ろしいのは」
ヴェントは声を落とした。
「彼らが法の外にいることだ。お前を確保しても、誰も咎めない。記録に残らないからだ。お前という人間がある日消えても――どこにもそれを記した紙はない。捜す者もいない。お前は最初から、いなかったことにされる」
いなかったことにされる。
その言葉がセイルの胸に冷たく落ちた。
アルヴォのことがよぎった。あの天才も消えた。学問のいちばん深い影に。今どこで何をしているのか。生きているのか。それすら誰も知らない。記録に残らないから。そして自分も――同じ影に、呑まれかけていた。
「標本に」セイルは掠れた声で言った。「されるのか。おれは」
「……分からん」ヴェントは目を伏せた。「だが、あの連中がお前に求めているのは。お前の命ではない。お前の眼だ。お前がどうやって祖型に触れているのか。命を代償にせずに。その機構を――お前を解剖してでも知りたがっている」
セイルの背筋を冷たいものが這い上がった。
殺されるのではない。生きたまま視られる。計られる。解剖される。その得体の知れない恐怖が、ただ命を奪われるよりもずっと深いところでセイルを凍らせた。
「ヴェント」セイルは低く訊いた。「あんたは止められないのか。あんたもあの連中に近いんだろう」
ヴェントの顔が歪んだ。
「近い」ヴェントは認めた。絞り出すように。「だからこそ昨夜のことも聞けた。だが――近いだけだ。私は庁の末端にも入っていない。ただその存在を知り、その動きを漏れ聞ける立場にいるだけだ。止める力など――ない。私がお前を庇おうとすれば、私も消される側に回るだけだ」
ヴェントは両手で顔を覆った。
「すまない」ヴェントは呻いた。「お前を中央へ連れてきたのは私だ。お前の才を見出して、輝かせたいと思った。なのに――その才がお前をこんな影に突き出すことになるとは」
セイルはヴェントのその苦しむ姿を視た。
嘘ではなかった。ヴェントの中で、本物の悔いと無力がせめぎ合っていた。味方でありたい。だができることがない。庁の巨大な影の前で、一人の若い学者にできることなど。
責められない、とセイルは思った。ヴェントは自分を売ってはいない。むしろ危険を冒して知らせてくれた。だが――それも限界があった。今夜はまだ味方だ。あの言葉の頼りなさが、今はっきりと分かった。ヴェントは味方でいたい。だが立場が、いつかそれを許さなくなる。
「分かった」セイルは静かに言った。「あんたを責める気はない。知らせてくれて助かった。――でも」
セイルは自分の両手を見た。この術式を視た手。視えたのに、法の檻からは逃れられないこの手を。
「視えても」セイルは低く言った。「逃げられないんだな。術は視える。どこに目があるかも視える。なのに――国家ってやつは、視ても視てもどこまでも追ってくる」
ヴェントと別れて、セイルは一人、都の雑踏を歩いた。
まばゆい学問の都。半年前ここへ来たとき、この世界でいちばん魔力に満ちた場所でなら、自分の感覚が何かになるかもしれないと思った。
なった。確かになった。だが――その「なった」は自分を影の標的に変えた。視えるというただそれだけのことが、国家の欲しがる獲物に。
人混みの中を歩きながら、セイルはふと思った。この行き交う人々の誰一人、自分が今どんな影に値踏みされたかを知らない。知る由もない。皆それぞれの日常を生きている。その賑やかな日常のすぐ隣で、自分だけが見えない網に絡め取られ始めていた。
足元の地面がまた一段崩れた気がした。だが――崩れたのは自分の足元だけだった。ほかの誰の足元でもなく。その孤独な崩れを、セイルは独りで感じていた。




