捕える手
肌のざわつきがセイルを救った。
その夜もセイルは文書館からの帰り道を歩いていた。アルヴォが消えてから、都の夜が前より暗く感じられた。あの男が堕ちていった先――学問のいちばん深い影。それが今や自分のすぐ後ろにまで迫っている気がしてならなかった。
路地に入ったその瞬間だった。
肌が悲鳴を上げた。
あの冷たく計算され尽くした気配。アルヴォを連れ去った、灰色がかった外套の人影。あれが――一人ではなかった。前にも後ろにも。路地の両端を塞ぐように。
セイルは足を止めた。
逃げ場はなかった。
「ロウラント君と言ったかな」
前方の影から声がした。
穏やかな声だった。だが、その穏やかさがかえってぞっとするほど冷たかった。感情の一切ない声。人に語りかけているというより、計器に数値を打ち込むような。
影がゆっくりと近づいてきた。月明かりにその顔が浮かぶ。
若くも老いてもいない、どこにでもいそうな男だった。それがなお恐ろしかった。研究者然とした整った佇まい。だがその目だけが――セイルを人として見ていなかった。一個の解くべき式として値踏みしていた。
「グレゴル・ザイン」男は名乗った。「と言っても君は私の名をどこにも見つけられんだろうがね。私は記録に存在しない」
記録に存在しない。
ヴェントの言葉がよみがえった。名を口にした者まで消える。そういう連中だ。
「あの夜の働きは見事だった」グレゴルは淡々と言った。「外側から測れぬ竜級の流れを直に視て、手繰り、鎮めた。何十年私たちが探しても見つからなかったものだ。――君は生きた観測器だ」
「おれは」セイルは掠れた声で言った。「道具じゃない」
「ほう」グレゴルはわずかに首を傾げた。「では何だね」
その問いにセイルは答えられなかった。
道具でないなら何なのか。落第者。化け物。視る者。誰も――自分自身さえ、その答えを持っていなかった。
「君に来てもらいたい場所がある」グレゴルは言った。「竜級の謎を解くための場所だ。なぜ竜級は命を代償に求めるのか。その代償がどこへ支払われているのか。――君の眼があれば、それが視えるかもしれない」
「断る」セイルは言った。
「断るという選択肢は」グレゴルの声が初めてわずかに硬くなった。「君にはない」
両端の影が動いた。
肌のざわつきがそれを捉えた。男たちの周りに、術式が組み上げられていく。学問の魔法。捕縛のための整然とした術。逃げれば絡め取られる。抗えばねじ伏せられる。魔力を流せぬ自分には――術で対抗する術はない。
だが。
セイルは目を閉じた。
閉じて絞って向ける。オルセンに教わったとおりに。男たちの組み上げる術式のその流れを視た。
視えた。
捕縛の術は四方から、網のようにセイルを包もうとしていた。だが――その網にはほつれがあった。術と術の繋ぎ目。一瞬だけ力の薄くなる隙間が。
左の男の足元。あそこがいちばん薄い。
網が閉じるその刹那。
セイルは地を蹴った。
左の男の足元へ。術の網のいちばん薄いほつれへ。男がぎょっとして術を組み直そうとする。だが、遅い。セイルはその隙間をすり抜けた。
「――視えているのか」
背後で、グレゴルの声が初めて感情めいたものを帯びた。驚きだった。いや――それは歓喜に近かった。
「術式の構造を組まれる端から視ている。なんという……これは想像以上だ」
セイルは振り返らなかった。走った。暗い路地を闇雲に。心の臓が壊れそうに打っていた。背後から追っ手の気配。だが肌のざわつきが、危ういところを教えてくれる。ここは塞がれている。こちらはまだ開いている。視える流れを頼りに、セイルは夜の都を駆け抜けた。
どこをどう走ったのか、気づくと環翠河のほとりに出ていた。
息が上がっていた。膝に手をつき、荒い息を整える。背後の気配は――もうなかった。撒けたのか。それとも向こうが引いたのか。
おそらく後者だ、とセイルは思った。あの男は今夜、本気で捕らえる気はなかったのかもしれない。ただ――試したのだ。自分がどこまで「視える」のかを。そしてその結果に満足してしまった。
それが何より恐ろしかった。
「セイル!」
声に振り返る。ヴェントが駆けてくるところだった。息を切らし、青ざめた顔で。
「無事か。――あの連中に接触されたと聞いた」
「あんた」セイルはヴェントを見た。「なんで知ってる」
ヴェントの動きが止まった。
その一瞬の沈黙がセイルの胸に冷たく刺さった。
なんで知っている。記録に残らない、あの連中の動きを。庁に近いと自分で言っていた、この人が。
「……私は」ヴェントは目を伏せた。「庁から聞いた。君を確保する動きがあると。止めようとした。だが――私の立場では、できることに限りがある」
味方でありたい。けれど立場がある。いつか裏切るような顔をする日が来たら――。
川辺で聞いたあの言葉がよみがえった。
「ヴェント」セイルは静かに訊いた。「あんたはまだおれの味方か」
ヴェントはすぐには答えなかった。
川面に都の灯が揺れていた。その光のどこにも本当の答えは映っていなかった。
「……今夜は」やがてヴェントは絞り出すように言った。「今夜はまだ味方だ」
今夜はまだ。
その言葉の頼りなさが、セイルにはっきりと告げていた。
この都にはもう、確かなものなど何一つない。学問の影が手を伸ばしてくる。導き手すら、いつ向こう側に立つか分からない。
足元の地面がまた一段崩れた気がした。




