板挟み
その日ヴェントの顔はいつになく硬かった。
文書館での調べ物を終え、薄暗い回廊を抜けたところでセイルは彼に呼び止められた。柱の影に待っていたように立っていた。あたりに人の目がないかを確かめるような素振りで。
「少しいいか」ヴェントは低い声で言った。
セイルは頷いた。だが、肌がわずかにざわついていた。ヴェントの周りの流れが――いつもと違う。学者らしい整然とした合理の鎧。その継ぎ目から、何か落ち着かないものが漏れ出していた。
「最近、妙な噂を耳にする」ヴェントは声を潜めた。「庁の方で――辺境帰りの聴講生に関心を持っている連中がいると」
庁。
その一語にセイルの胸が冷たくなった。記録に残らぬ灰色の外套。アルヴォを連れ去り姿を消させたあの連中。
「おれのことか」セイルは言った。
「名指しはされていない」ヴェントは目を伏せた。「だが――竜級を素手で鎮めた者の話は、もう消せるところを過ぎている。あの夜のことを知る者は知っている。そして知る者の中に、庁の人間がいる」
ヴェントの言葉は、いつものように明晰ではなかった。言い淀み、言葉を選び、肝心のところをぼかしていた。
この人はもっと知っている。セイルはそう感じた。噂などではない。もっと確かな何かを。だが、それを口にできずにいる。
「あんた」セイルは静かに訊いた。「どこまで知ってる」
ヴェントの動きが止まった。
その沈黙が答えだった。
「……私は」ヴェントはようやく口を開いた。「中央の魔法学者だ。庁とは近い。研究の便宜も受けている。庁に逆らうということは――私の立場では、自分の名を記録から消されることと同じだ」
言葉が途切れた。
セイルは視ていた。ヴェントの周りの流れが、ねじれ軋んでいくのを。学問の理できれいに整えられていたはずのその流れが、今は迷いと後ろめたさで濁っていた。
「あんたは」セイルは言った。「おれを助けたいのか。それとも、庁の側に立つのか」
「分からない」
ヴェントは即座にそう答えた。その正直さがかえって痛かった。
「分からないんだ」ヴェントは繰り返した。掠れた声で。「君を見ていると――私がずっと抑え込んできたものが疼く。学問では説明のつかないもの。測れぬもの。私が本当は惹かれていたもの。君は、それを生まれつき持っている」
初めて出会った川辺の夜がよみがえった。学べるが感じ取れぬ自分。感じ取れるが学べぬ君。互いに欠けたものを映し合う鏡。――そう言ったあの声が。
「だが」ヴェントは続けた。「私には守るものがある。地位も。研究も。これまで積み上げてきたすべてが。それを捨てて君の側に立つ覚悟が――私には、まだない」
まだ。
その一語がセイルの胸に刺さった。
いつか裏切るような顔をする日が来たら。そのときは川辺の話を思い出してくれ。――かつてこの人がそう言った。あれは予告だったのだ。今、その日が少しずつ近づいている。
「なら」セイルは言った。怒りではなく、ただ静かに。「無理はしなくていい。あんたがおれのせいで消されるのは――おれも嫌だ」
ヴェントがはっと顔を上げた。
その目に、安堵と、それからもっと深い苦しみのようなものが浮かんだ。許されたことがかえって応えたのだ。
「気をつけろ」ヴェントは絞り出すように言った。「夜は特に。一人で人気のない道を歩くな。連中は――言葉で誘いはしない。気づいたときには、もう囲まれている」
囲まれている。
その言葉にセイルは背筋が寒くなった。
「分かった」セイルは言った。
ヴェントはもう一度何か言いかけて、やめた。そして踵を返し、回廊の暗がりへ足早に消えていった。
一人残されたセイルはしばらくその場に立っていた。
味方でありたい。けれど立場がある。――ヴェントの揺れる流れが、まだ肌に残っていた。あの人は嘘をついていない。本当に助けたいと思っている。だが、本当に守りたいものも別にある。その二つに引き裂かれて立ちすくんでいる。
責められない、とセイルは思った。誰だって自分の積み上げたものを捨てるのは怖い。
だが――それはつまり。
いざというときこの人はおれの側には立てないかもしれない。
窓の外はもう暮れていた。都の灯が一つ、また一つとともりはじめていた。その光の中に、記録に残らぬ影がどれだけ紛れているのか。誰も知らない。
セイルはヴェントの言葉を思い返した。一人で人気のない道を歩くな。
だが、自分にはもう人気のない道しか残されていなかった。




