堕ちる音
セイルがようやくアルヴォを捕まえたのは数日後の夜だった。
あの回廊で人影を見て以来、ずっと機会を窺っていた。落第者の言葉など聞かないだろう。それでも――言わずにはいられなかった。竜種化の恐怖を知ったばかりの自分には、淵へ近づく者を黙って見ていることができなかった。
「アルヴォ」
呼び止めると、アルヴォは振り返った。その顔を見て、セイルは息を呑んだ。
憑かれた目をしていた。眠っていないのか目の下が黒い。だがその奥に――これまでなかった奇妙な熱が灯っていた。希望に似た熱が。
「ああお前か」アルヴォは薄く笑った。「ちょうどいい。お前に礼を言わねばと思っていた」
「礼?」
「あの夜だ。お前が私の暴走を鎮めた」アルヴォの声は奇妙に穏やかだった。「あのとき私は悟った。量では届かないと。だが――別の道があったのだ。私が知らなかっただけで」
セイルの肌がざわついた。嫌な予感がはっきりとした形を取りはじめていた。
「アルヴォ。あんた何を……」
「竜級に届く道だ」アルヴォは目を輝かせた。「私自身の命を削らずに。ある方が教えてくださった。学問が表で教えぬ本当の魔法を」
「やめろ」セイルは思わず言った。「それ誰に聞いた」
「ある研究機関のお方だ」アルヴォは言った。「名は言えない。記録に残らない方だそうだ。だが――本物だった。私が一生届かぬと思っていた領域をあの方はすでに踏み込んでいる」
記録に残らない。
ヴェントの言葉がセイルの頭をよぎった。名を口にした者まで消える。そういう約束で動いている連中だ。――第七公理庁。竜級を研究する学問の影。
「アルヴォそれは」セイルは必死で言った。「危ない連中だ。あいつらは竜級を観測するたびに人を一人失うんだ。誰かに命を浴びせて」
アルヴォの動きが一瞬止まった。
「……知っている」
低い声だった。セイルはぞっとした。
知っている。アルヴォは知った上で向こうへ行こうとしている。
「竜級は命を代償に要る」アルヴォは淡々と言った。まるで自分に言い聞かせるように。「それは変わらない。誰かの命が要る。――だがそれが私の命でなくてもいい。あの方はそうおっしゃった。代償は別の者が支払えばいいと」
「別の者って」セイルの声が震えた。「それ誰の命だ」
アルヴォは答えなかった。
答えられなかったのだとセイルには分かった。それが何を意味するかをアルヴォ自身分かっていた。分かっていて――目を逸らしていた。
「おかしいだろう」セイルは詰め寄った。「自分の力で届かないものに。他人の命を踏み台にして届いて。それで何になる。それはあんたの力じゃない」
「私の力だ」アルヴォは初めて声を荒げた。「私が組む。私が術式を構築する。代償を誰が払おうと――術を成すのは私の技だ!」
その叫びには必死さがあった。
セイルは悟った。アルヴォはもう自分でもそれが歪んでいると気づいている。気づいていてなおすがろうとしている。だってそれしかなかったから。一生かけても届かぬ天井に届く道が。たとえその道が誰かの命の上に敷かれていたとしても。
「あんたは」セイルは静かに言った。「そんなやつじゃなかっただろう」
アルヴォの顔が歪んだ。
一瞬――ほんの一瞬だけその目から憑かれた熱が消えた。代わりに迷いと、怯えと、それから深い孤独が覗いた。誇り高い天才のいちばん柔らかい奥のところが。
「……お前に」アルヴォは絞り出した。「お前に私の何が分かる」
「分からない」セイルは正直に言った。「あんたの渇きはおれには分からない。おれは持ってる側だから。あんたが何をどれだけ欲しがってるのか本当には分からない。――でも」
セイルはまっすぐにアルヴォを見た。
「それでもこっちに来てくれ。淵に堕ちるな」
長い沈黙があった。
回廊の魔法照明が二人の影を床に長く落としていた。アルヴォはうつむいて何も言わなかった。セイルは待った。届けと祈るように。
やがて――アルヴォは顔を上げた。
その目から迷いは消えていた。代わりに静かな決意のようなものが宿っていた。だがそれは希望の決意ではなかった。すべてを諦めた者の決意だった。
「遅いんだよ」アルヴォは言った。
その声はもう震えていなかった。
「私はもう見てしまった。あの方が私に見せてくれた竜級の入口を。あれを知ってしまった以上――もう知らなかったころには戻れない。お前があの石を視ることをやめられないように。私ももうあの天井を諦められない」
セイルは言葉を失った。
戻れない。それは――自分自身の言葉でもあった。意志して視ることを覚えた自分が垂れ流しのころには戻れないように。アルヴォもまた知ってしまった。そして知ってしまった者は引き返せない。
「礼を言う」アルヴォは最後にそう言った。「あの夜命を拾ってくれて。――おかげで私は本当に欲しいものを見つけられた」
それは感謝の言葉だった。だがこれほど悲しい感謝をセイルは聞いたことがなかった。
アルヴォは踵を返した。
「待て!」セイルはその背に手を伸ばした。
だがアルヴォは止まらなかった。回廊の暗がりの奥へ。そこに――いつのまにかあの灰色がかった外套の人影が立っていた。アルヴォを待つように。
人影はセイルのほうをちらと見た。
顔は影に沈んでいた。だがその視線がセイルを捉えた瞬間――肌のざわつきが悲鳴を上げた。冷たい。底なしに冷たい。感情の一切ない計算だけの眼差し。人を人として見ていない。一個の数式の項として値踏みする目。
その目がセイルを見て――かすかに興味の色を浮かべた。
まるで「次はお前か」とでも言うように。
セイルは動けなかった。
人影はアルヴォを伴って闇に溶けていった。アルヴォは一度も振り返らなかった。
あとに残されたのはセイル一人だった。
回廊は静まりかえっていた。さっきまでそこにアルヴォがいたことが嘘のように。
堕ちていった。
セイルは自分の手を見た。あの夜アルヴォの命を淵から引き戻した手。だが今夜は――その手は何も掴めなかった。命は救えても心が堕ちていくのは止められなかった。
アルヴォはセイルが選ばなかった道を選んだ。
届かぬものに手を伸ばすために一線を越えた。他人の命を踏み台にする道を。セイルにもあの渇きが分からないわけではなかった。竜種化の恐怖を抱えてなお視ることをやめられない自分も――一歩間違えれば同じ淵に堕ちるのかもしれない。
アルヴォはもしかするともう一人の自分だったのかもしれない。
持つ者と持たざる者。立場は正反対だった。けれど淵の縁に立たされているのは二人とも同じだった。ただアルヴォが先に足を踏み外しただけで。
窓の外で都の灯がまばゆく光っていた。
その光のずっと奥にアルヴォは消えた。学問のいちばん深い影の中へ。
セイルは長いあいだその場に立ち尽くしていた。
次はお前か。
あの冷たい目が残していった言葉が。肌の奥でいつまでも消えなかった。




