引き返せぬ線
アルヴォと灰色の男の取引を視てしまったその夜から。
セイルは眠れない夜を重ねた。
視えていた。すべて。アルヴォが葛藤し、自分を欺き、踏み外していくその一部始終が。だが――視えていたのに。止められなかった。声をかける隙もなかった。いやかけたところで届かなかっただろう。
またそれだった。視えても手が届かない。ピルを救えなかったときと。アルヴォの孤立を止められなかったときと。同じ無力。
翌日セイルはヴェントを訪ねた。
アルヴォのことを話すべきか迷った。だが――一人で抱えるには重すぎた。
「灰色の外套の男」セイルがその特徴を告げると、ヴェントの顔がこわばった。「記録に残らないと。竜級を扱う研究機関の」
「……名を言うな」ヴェントが低く遮った。声に緊張が走っていた。「その手の者の名を口にした者は――消える。そういう黙約で動いている。第七――」
ヴェントは自分の口を慌ててつぐんだ。それから声をひそめた。
「竜級を国家の管理下で研究している連中だ」ヴェントは言った。「竜級には命の代償が要る。それを――被験体に肩代わりさせる。観測のたびに人が一人消える。記録からもこの世からも。それを彼らは必要な代価だと本気で信じている」
「アルヴォが」セイルは掠れた声で言った。「そこに引き込まれた。竜級に届く道だと言われて。代償は別の誰かが払うと」
ヴェントは深いため息をついた。
「気の毒だが」ヴェントは低く言った。「もう引き返せまい。彼らの入口を見てしまった者は。竜級の味を知ってしまった者は。――一度その線を越えたら。戻る道はない。彼らはそういう風に人を絡め取る」
引き返せぬ線。
その言葉がセイルの胸に刺さった。
アルヴォはその線を越えた。誰かの命を代償にすると知りながら。考えないことにすると自分に言い聞かせて。一度越えてしまえば。もう戻れない線を。
「ヴェント先生」セイルは訊いた。「その連中は。なぜ竜級なんかを」
「EPだ」ヴェントは言った。「命の核にいちばん近い高純度の魔力。竜級はそれを焚べて発動する。彼らはそのEPの謎を解こうとしている。命とは何か。それを操れるか。――そのためなら人の命をいくらでも使う」
ヴェントはふと声を落とした。
「だから」ヴェントはセイルをまっすぐ見た。「君は――気をつけたほうがいい」
「おれ?」
「君は」ヴェントは低く言った。「祖型を視る。命の流れを視る。彼らが喉から手が出るほど欲しがる力だ。アルヴォのような量の天才はいくらでもいる。だが――君のような視る者は。めったにいない。もし彼らが君の力を知ったら」
セイルの背筋が凍った。
あの灰色の男の視線を思い出した。アルヴォと取引するその傍らで。一瞬扉の隙間から覗いていた自分のほうを――男は見たような気がした。気のせいだと思おうとした。だが。
もしあれが気のせいでなかったとしたら。
あの男はもう自分の存在を知っているのかもしれない。視る落第者。命の流れを視る異才。彼らが何より欲しがる生きた実験体。
セイルは自分の両手を見た。震えていた。
アルヴォは向こうから線を越えた。だが自分は――向こうから線のこちら側へ手を伸ばされる側だった。狙われる側。連れ去られる側。同じ引き返せぬ線が。自分の足元にも引かれていた。ただ越え方が逆だった。
その夜もセイルは眠れなかった。
アルヴォの堕ちていく姿。グレ――いやあの名を呼べぬ男の冷たい眼差し。そして自分の無力。すべてがぐるぐると頭の中を回った。
止めたかった。アルヴォを。だがもう遅いのかもしれない。引き返せぬ線を越えてしまった者を引き戻す術はないのかもしれない。
それでも――とセイルは思った。
一度だけ話そう。アルヴォと。たとえ無駄でも。視えても止められなかったその無力を。せめて最後に声をかけることで少しでも減らせるなら。竜種化の恐怖を知ったばかりの自分には。淵へ堕ちる者を黙って見送ることはできなかった。
越えてしまった者にもまだこちらの岸が見えているかもしれない。そう信じたかった。
数日のあいだセイルは機会を窺った。
アルヴォはもう人前に出なかった。夜になるとどこかへ消えた。あの影のほうへ。セイルはその姿を遠くから見ては声をかけるきっかけを探した。だがなかなか二人きりにはならなかった。
その待つ時間がセイルには長く苦しかった。
待っているあいだにも。アルヴォは向こう側へ深く深く沈んでいく。引き返せぬ線のずっと奥へ。一日遅れるごとに。届く可能性が薄れていく。それが視えるようで。だが焦って人前で捕まえれば。アルヴォは意地でも聞かないだろう。二人きりになれる夜を。待つしかなかった。
そして肌の奥では。あの冷たい眼差しの気配が。消えずに脈打っていた。次はお前かとでも言うように。自分の足元に引かれた引き返せぬ線が。じわじわとその存在を増していくのを。セイルは感じていた。
数日後のある夜。ようやくその機会は訪れることになる。




