竜級へ届く道
あの夜灰色の人影とアルヴォが接触するのを見て以来。セイルはアルヴォの様子を窺うようになっていた。
止めたかった。竜種化の恐怖を知ったばかりだった。淵へ近づく者を黙って見ていることができなかった。だが声をかける勇気は出なかった。落第者の言葉などアルヴォは聞かないだろう。
だからただ見ていた。アルヴォが日に日に変わっていくのを。
アルヴォはもう人前に出なくなっていた。
療養から戻ったはずだった。だが講義にも現れない。学徒たちの輪にもいない。取り巻きだったメイナやクレスももう彼の周りにはいなかった。完璧だった天才は暴走して器を傷め、今や誰からも忘れられかけていた。
そのアルヴォが夜になると院の人気のない区画へ向かう。
セイルはある夜、その後をつけた。肌のざわつきを頼りに。あの冷たく計算され尽くした気配のする方へ。
たどり着いたのは院の地下に近い古い一室だった。
扉の隙間からセイルは中を視た。
アルヴォがいた。そして――その前に灰色の外套の男が立っていた。あの人影。若くも老いてもいない研究者然とした男。その周りの空気がぞっとするほど静かに淀んでいた。
「竜級は」男の感情のない声が聞こえた。「量では届かない。君ももうそれは思い知ったろう。どれだけ積んでもあの最後の一段にだけは足をかけられん。なぜなら――竜級には命の代償が要るからだ」
「命の代償」アルヴォが掠れた声で繰り返した。
「そうだ」男は淡々と言った。「竜級に触れる者は自らの命を祖型の流れに焚べねばならん。一度術を使えば寿命が削れる。何度か使えば――死ぬ。だからどんな天才も竜級には近づかない。割に合わんからだ」
「では」アルヴォの声が震えた。「私には――やはり無理なのか」
「いや」
男の声がわずかに低くなった。
「別の道がある」
セイルの肌が凍りついた。
その「別の道」の中身を聞く前から肌が警告していた。これは――聞いてはいけないものだ。アルヴォを決定的に向こう側へ連れていく言葉だ。
「我々のところへ来れば」男は言った。「君は竜級を使える。自分の命を削らずに」
「どうやって」
「代償を」男は言った。「別の誰かが払う。我々が用意した別の命が。君は竜級の栄光だけを手にする。代償は君以外の誰かが肩代わりする。――どうだ。悪くない取引だろう」
部屋に沈黙が落ちた。
セイルは息を呑んだ。
別の誰かの命で。竜級の代償を。それは――人を燃料にするということだった。竜級の栄光のために名もない誰かの命を焚べる。アルヴォがその手を汚さずに済むように見えるだけで。実際にはもっと深い場所で汚れる取引だった。
断れとセイルは心の中で叫んだ。断ってくれ。アルヴォ。それだけは。
アルヴォは長いあいだ黙っていた。
その横顔をセイルは視た。
葛藤していた。剥き出しの葛藤。倫理と渇望がその中で激しく引き合っていた。誰かの命を代償にする。それがどれほどの罪か。アルヴォにも分かっていた。分かっていてなお――惹かれていた。あの届かぬ天井へ。竜級へ。誰よりも高く積んでそれでも届かなかったあの最後の一段へ。
「……それは」アルヴォが絞り出すように言った。「人を犠牲にするということだろう」
「そうとも言える」男は否定しなかった。「だが考えてもみたまえ。その『誰か』はどうせ何者にもなれぬ名もなき者だ。その命が君のような稀代の才能の礎になる。それは――無駄死によりずっと意味のある死ではないかね。命の有効活用だ」
なんという理屈だとセイルは思った。
悪意ではなかった。この男は本気でそう信じていた。才能のために凡庸な命を焚べることを正しいと。だからこそ恐ろしかった。完璧に整った論理だった。その論理の中では人の命すら計算式の一項に過ぎなかった。
「私は」アルヴォがゆっくりと口を開いた。
その声に――もう葛藤はなかった。
代わりにあったのは奇妙な平静だった。何かを決めた者の平静。あるいは自分を欺き終えた者の。
「私は誰よりも高く積んできた」アルヴォは言った。「努力した。誰よりも。なのに量では届かないと言われた。――ならば。届く道があるのなら。たとえそれがどんな道でも」
「賢明な判断だ」男は言った。
「ただ」アルヴォは続けた。「その『誰か』のことは――考えないことにする。考えればできない。だから考えない。私はただ竜級に届く。それだけだ」
考えない。
その一言にセイルは目を閉じた。
アルヴォは踏み外した。誰かの命を代償にすると知りながら。それを「考えないことにする」と自分に言い聞かせて。剥き出しの渇望に論理の仮面をかぶせて。
それがいちばん恐ろしい堕ち方だった。激情に駆られてではない。冷静に自分を欺いて。一段ずつ自分に言い訳をしながら。気づいたときにはもう戻れない場所まで。
セイルはその場を離れた。
扉の向こうで取引が成立していくのをこれ以上視ていられなかった。
止められなかった。声をかける隙もなかった。いや――かけたところでもう遅かった。アルヴォは自分で決めた。自分を欺いて。誰の声ももう届かない場所へ。
廊下を歩きながらセイルは思った。
あの夜アルヴォの命を引き戻したのは自分だった。だが引き戻したその命が今、自分の意志でもっと深い淵へ堕ちていく。誰かの命を踏みつけて。
救った命が別の命を奪う側へ回る。
その皮肉がセイルの胸を重く抉った。
数日のうちにもう一度だけアルヴォと話そうとセイルは思った。たとえ無駄でも。淵へ堕ちる者を黙って見ていることはできなかった。竜種化の恐怖を知ったばかりの自分には。
だがそのときにはもう――アルヴォの目にはあの希望めいた憑かれた熱が灯っているのだろう。届かぬ天井についに手が届くという偽りの希望が。




