渇きの底
もう一度だけ話そうとセイルは決めた。
アルヴォが灰色の人影と接触する前に。淵へ堕ちきる前に。たとえ無駄でも。竜種化の恐怖を知ったばかりの自分には淵へ向かう者を黙って見ていることができなかった。
セイルは人気のなくなったアルヴォを探した。
アルヴォは誰もいない実習場の隅にいた。
一人で術式を組んでいた。だが――その術式は途中で崩れた。媒晶の光が不安定に揺らぎ、消えた。アルヴォは舌打ちして、また最初から組み直した。何度も。何度も。崩れては組み直し。
器を傷めた身では。もう以前のようにはいかないのだとセイルには視えた。完璧だった造形が今はほころびる。それを無理に押し通そうとしてまた崩れる。
「アルヴォ」
セイルが声をかけると、アルヴォはびくりと振り向いた。そして――セイルだと分かるとその顔が屈辱に歪んだ。
「貴様」アルヴォは低く言った。「何しに来た。私の無様を見物しに来たのか。魔力もない落第者が」
「違う」セイルは言った。「ただ――心配で」
「心配?」アルヴォが吐き捨てた。「貴様に心配されるいわれはない。――そうだ。貴様だ。あの夜私を救った。私の命を引き戻した。私が命がけで届こうとした領域を。貴様はただ視るだけで易々と扱った。礼など言わんと言ったはずだ」
その声に剥き出しの痛みがにじんでいた。
セイルは視た。アルヴォのその痛みの底を。
飢えだった。
以前視たときよりもずっと深い。ぽっかりと空いた虚。アルヴォの内には祖型へ通じる流れがまったくなかった。完全なゼロ。どれだけ魔力を積んでも。どれだけ術式を極めても。そのいちばん奥の祖型への扉だけは。最初から塞がれていた。生まれつき。
そしてアルヴォは――それを知っていた。自分にはその扉がないことを。だからこそ量で技で補おうとした。誰よりも高く積んで。その壁を乗り越えようとした。
だが竜級の天井にだけは。どうしても届かなかった。なぜなら竜級は――祖型に深く触れねば届かない領域だったから。アルヴォに最初からないまさにその扉を通らねばならない領域だったから。
アルヴォの飢えの底にはそれがあった。生まれつき持たざる者の絶対の渇き。どれだけ努力しても決して満たされない。なぜなら欠けているのは努力で補える量ではなく――生まれつきの扉そのものだったから。
「アルヴォ」セイルは思わず言った。「あんたの飢えは――視える。竜級に届かないのは。あんたの努力が足りないからじゃない。あんたには最初から祖型への扉が――」
「黙れ」
アルヴォの声が実習場に響いた。
「貴様に」アルヴォは目を血走らせて言った。「貴様にだけは言われたくない。私にないものを生まれつき持っている貴様にだけは。――そうだ。私には扉がない。だが貴様にはある。何の努力もせずに。辺境の落第者の貴様に。私が一生をかけても手に入らないものが。最初から備わっている」
アルヴォの握った拳が震えていた。
「貴様のその憐れみが」アルヴォは絞り出した。「いちばん許せない。持つ者が持たざる者を憐れむ。それがどれほど残酷か。貴様には分かるまい。――失せろ。二度と私の前に現れるな」
セイルは立ち尽くした。
届かなかった。何を言っても。むしろ――自分が言葉をかければかけるほど。アルヴォは傷ついた。持つ者が持たざる者に何を言っても。それは上から差し伸べた手にしかならなかった。憐れみにしか。
セイルには視えていた。アルヴォの飢えの底が。理解できた。同情もした。だが――理解しても同情しても。それはアルヴォを救わなかった。むしろ屈辱を深めた。なぜなら理解する側に立てること自体が。持つ者の証だったから。
持つ者と持たざる者。その間にはどうやっても渡れない川が流れていた。セイルがいくら岸から手を伸ばしても。アルヴォの立つ岸には届かなかった。
「……悪かった」セイルは低く言った。「おれはただ――あんたが間違った道に行きそうな気がして」
「間違った道?」アルヴォが冷たく笑った。「貴様に私の道の何が分かる。――いいか。私は必ず竜級に届く。どんな手を使っても。そのとき貴様のその憐れみがどれほど的外れだったか。思い知らせてやる」
どんな手を使っても。
その言葉にセイルの肌がざわついた。すでにアルヴォの中で何かが傾いていた。届くためならどんな手でも。その危うい傾きが。
「アルヴォ」セイルは最後に言った。「どんな手でもいいわけじゃない。届くために何を差し出すかで――あんたが何者になるかが決まる」
だがアルヴォはもう聞いていなかった。背を向けて。崩れた術式をまた組み直し始めていた。一人で。誰の声も届かない渇きの底で。
実習場を出て。
セイルは重い足取りで廊下を歩いた。
届かなかった。最後の手は。アルヴォは自分の言葉だけは絶対に受け取らない。持つ者の言葉だから。憐れみに聞こえるから。
なら――アルヴォの渇きを満たすと囁く者が現れたら。アルヴォはその手を取るだろう。たとえそれがどんなに暗い手でも。自分のような持つ者の正しい言葉よりも。持たざる飢えを満たすと約束する暗い手のほうを。
その予感がセイルの胸を冷やした。
止めたかった。だが自分には止められない。自分こそがアルヴォの飢えをいちばん刺激する存在だった。持つ者であるというただそれだけで。
数日のうちにその予感は――最も暗い形で現実になる。セイルはまだそれを知らなかった。ただ廊下の冷たい空気の中で。漠然とした不吉なざわつきだけが肌の奥で脈打っていた。




