渇いた天才
アルヴォ・ゼーゲルが変わりはじめていた。
それに最初に気づいたのはセイルだった。誰も気づいていなかった。アルヴォは相変わらず人の輪の中心にいて、相変わらず完璧な術式を組んでみせていたから。
だがセイルには視えた。
あの男の周りに渦巻く膨大な魔力。整然と過不足なく組み上げられた完璧な造形。その真ん中にあった空白――満ちているのにどこにも繋がっていないあの寂しい空白が。今は空白ではなくなっていた。
飢えに変わっていた。
ぽっかりと空いていた穴の縁がささくれ立って、何かを求めてひりついている。アルヴォは今、自分に欠けているものの形をはっきりと知ってしまった者の顔をしていた。
きっかけはあの夜だったのだろうとセイルは思う。
誰にも止められなかった竜級の暴走を魔力も流せぬ落第者が鎮めてしまった夜。あの夜からアルヴォは変わった。
量では届かない。どれだけ完璧に積み上げても竜級という天井には一歩も足をかけられない。それをアルヴォは骨身に染みて知ってしまった。しかも――自分が一生かけても届かぬその領域を見下していた相手が易々と手繰ってみせた。
あれは誇り高い天才にとってどれほどの屈辱だっただろう。
廊下ですれ違ったとき。アルヴォはいつものようにセイルを無視しようとした。だがその目が一瞬セイルに留まった。
道端の石を見るような関心のなさはもうそこになかった。
代わりにあったのは――嫉妬とそれからもっと底の深い渇きだった。
「……何を見ている」アルヴォが低く言った。
「いや」セイルは言葉に詰まった。「あんた大丈夫か」
「大丈夫だと?」アルヴォの口元が歪んだ。「落第者に心配される筋合いはない」
吐き捨てて行こうとする。だが数歩進んで足を止めた。背を向けたまま絞り出すように言った。
「……どうやった」
「え」
「あの夜だ。お前はどうやってあれを視た」アルヴォの声が震えていた。「私には何も視えなかった。あれだけの魔力を目の前にして。流れも構造も何も。なのにお前には視えた。――どうやってだ」
セイルは答えに詰まった。
どうやってと訊かれても。視えるものは視える。それだけだ。説明のしようがなかった。
「……分からない」セイルは正直に言った。「ただ視えるんだ。生まれつき」
その答えはアルヴォにとって最悪の答えだった。
努力ではない。修練でもない。生まれつき。アルヴォが血の滲むような研鑽で積み上げてきたものとはまるで別の場所に、それは最初からあった。
アルヴォは何も言わずに行ってしまった。だがその背中がこれまでになく小さく強張って見えた。
それからアルヴォは無理をするようになった。
聴講の合間に見かけるたび、彼は術式の練習をしていた。だがその内容が変わっていた。教本にある制式術式ではない。もっと危うい限界ぎりぎりの術を繰り返し試している。
肌のざわつきがそれを捉えていた。
アルヴォは量をさらに増やそうとしていた。自分の体内魔力の限界を超えて。もっと多くもっと大きく。量で届かないなら量をもっと積めばいい――そう信じ込もうとするように。
だがセイルには視えていた。それが無駄な足掻きだということが。
竜級は量の問題ではなかった。あれは自我を明け渡して祖型に深く呑まれることで初めて触れる領域。どれだけ魔力を積んでも窓のないアルヴォにはその入口すらない。彼が今やっていることは――届かない天井をより高く積んだ梯子で叩いているだけだった。
いつかその梯子は折れる。
「ゼーゲルの様子変だよな」
トビーが心配そうに言った。
「このごろ誰ともしゃべらないんだ。前はあんなに囲まれてたのに。質問されても上の空でさ。なんか――追い詰められてるみたいな」
セイルは黙ってうなずいた。
追い詰められている。まさにそれだった。アルヴォは自分で自分を追い詰めていた。完璧であろうとすればするほど唯一持てぬものが際立つ。届こうとすればするほど届かないことを思い知る。
その渇きはもう学問の中では満たせなくなっていた。
セイルは嫌な予感がした。
渇いた者の前にはいつも誰かが現れる。村で化け物と畏れられた自分の前にカインが現れたように。狭間に立たされた者には必ず手を差し伸べる者がいる。優しい顔で。半ば正しいことを言って。
アルヴォのような渇いた天才を放っておく者たちではない。
学問の影も。神秘の手も。
その夜セイルは文書館の帰りにアルヴォを見かけた。
暗い回廊の隅でアルヴォは一人で立っていた。そしてその前に――もう一人誰かがいた。
顔は見えなかった。灰色がかった外套を着た背の高い人影。穏やかに何かをアルヴォに語りかけている。アルヴォはうつむいてそれを聞いていた。
セイルの肌がざわついた。
あの人影の周りの流れ。学問の整然としたものでもカインのような生々しい神秘のものでもない。もっと冷たく計算され尽くした何か。底のほうでぞっとするほど静かに淀んでいる。
近づこうとしてセイルは足を止めた。
声をかければいいのか。アルヴォを引き戻すべきなのか。だが――あの男は自分の声など聞かないだろう。むしろ落第者に止められることが彼をもっと向こうへ追いやるかもしれない。
セイルが迷っているうちに。
人影はすっと闇に溶けた。アルヴォは一人その場に残された。やがてゆっくりと歩き出す。その足取りはどこか夢遊病者のようだった。
セイルは暗がりからその背を見送った。
手を伸ばせなかった。届く気がしなかった。
あの夜アルヴォの命を引き戻した手は。今度は彼の心が淵へ堕ちていくのを――ただ見ていることしかできなかった。




