禁じられた一件
竜種化の恐怖を知ったその翌日から。
セイルは一つの禁を自分に課した。
視ない。
深く視れば淵に近づく。喰らう者が喰らわれる側へ転じる。なら――視なければいい。その一線に近づかなければ。淵から遠ざかっていれば。竜種になることもない。
単純な理屈だった。怖いものには触れなければいい。
最初の一日は。
なんとかやり過ごせた。
セイルは肌のざわつきが立ち上がるたびに、意識してそれを閉じた。オルセンに教わった閉じる、絞る、向けるその技を逆向きに使った。視ることを向けずに。絞り込まずに。ただぴたりと閉じて。
すると世界が薄くなった。
いつも視えていた人々の祖型の相。物に染み込んだ流れの淀み。それらがすっと遠のいた。ただの眼に映る表面だけの世界。誰もが見ている平らな世界。
楽だった。少し。
誰の内側も視えない。誰の淵も感じない。これなら――竜種化の恐怖からも遠ざかっていられる。
だが二日目には。
もう苦しくなっていた。
閉じているというのは。視えないように絶えず力を込め続けるということだった。漏れてくるざわつきを押し戻し押し戻し。ひっきりなしに。一瞬でも気を緩めれば。視えてしまう。だから緩められない。
それは視ることよりもずっと消耗した。
村でまだこの技を知らなかったころ。セイルはただ垂れ流していた。視たくもないものが勝手に流れ込んできて。頭が割れそうになって。苦しんだ。あのころに――逆戻りしていた。いやもっと悪かった。あのころはただ流されていた。今はそれを必死で堰き止めていた。堰はいつか決壊する。
三日目の午後。
セレナといつもの仕事をしていたときだった。
古い魔導具の検分。セレナが記述を進める横で。セイルはそれを視て淀みを選り分ける――はずだった。だが視るのを封じていたセイルには何も視えなかった。ただの古びた金属の塊にしか。
「セイル?」セレナが怪訝そうに手を止めた。「どうしたの。いつもならもう危ないところを教えてくれてるのに。――今日は何も言わないから。私どこを記述すればいいのか」
セイルは言葉に詰まった。
視なければ。セレナの仕事も進まない。自分が視て淀みを選り分けるからこそセレナの記述が安全に進む。視ることを封じれば――自分はただそこに座っているだけの役立たずだった。
「……ごめん」セイルは低く言った。「今日はちょっと視るのを休んでて」
「休む?」セレナはますます訝しんだ。「視るのを休めるものなの。あなたのそれは。生まれつき視えてるんじゃ」
「いや」セイルは口ごもった。「閉じてれば。視えなくできる。でも――」
でもそれは楽ではなかった。むしろ視るよりずっと苦しかった。そして何より――誰の役にも立てなかった。
セイルはその日結局堰を緩めた。
とたんにざわつきが流れ込んできた。魔導具の淀み。セレナの案じる気持ちの相。世界がまた深く立体になった。苦しいくらいに視えた。だが――視えた瞬間ふっと肩の力が抜けた。閉じ続けるあの消耗から解放されて。
「あった」セイルは思わず言った。「ここだ。この継ぎ目。淀みが強い。記述慎重に」
「……うん」セレナはほっとしたように頷いた。それからちらとセイルを見た。「やっぱりあなたは視てるときのほうが。なんていうか――楽そう」
その言葉がセイルの胸に刺さった。
視てるときのほうが楽そう。――そうだった。閉じているほうがずっと苦しかった。視ることは淵に近づく危うさを孕んでいる。だが視ないことは――自分を自分でなくする別の苦しみだった。役立たずの無力。垂れ流しの過去。堰き止め続ける消耗。
逃げ道はなかった。視ても淵。視なくても淵。どちらの淵も口を開けていた。
その夜セイルはオルセンに打ち明けた。
視るのをやめようとしたこと。だができなかったこと。
オルセンは長いあいだ黙って聞いていた。それから低く言った。
「やめられると思ったか」
「……はい」セイルはうつむいた。「視なければ淵に近づかずに済むと」
「無理だ」オルセンは静かに言った。「お前はもう意志して視ることを覚えた。村でただ流されていたあのころには戻れん。覚えてしまった者は忘れられん。――そして忘れたところで。お前の力は消えはせん。閉じてもそれはお前の内にある。淵はお前の外にあるのではない。お前の内にあるのだ」
セイルははっと顔を上げた。
「だから」オルセンは続けた。「逃げてはいかん。視ないことで淵から逃げようとすれば――お前はただ無力に戻るだけだ。淵は消えん。お前の内にある限り。お前にできるのは逃げることではなく――その淵を抱えたまま、それでも踏みとどまることだけだ」
抱えたまま踏みとどまる。
その言葉がセイルの胸に深く落ちた。
視ても淵。視なくても淵。どちらにも逃げ場はない。なら――逃げずに。淵を内に抱えたまま。それでも視ることを選ぶしかない。竜種化の恐怖を抱えたまま。一線を見極めながら。その危うい際で。踏みとどまる。
それは楽な道ではなかった。だが――楽な道はどこにもなかった。最初から。
禁を解いたその夜。
セイルはまた自分の手を視た。
この手は淵に近い。視れば視るほど人ならざるものへ近づく。だが視なければ自分は無力に戻り、誰も救えずただ苦しむだけだった。
なら――抱えていこうとセイルは思った。怖いまま。危ういまま。それでも。村の無力にも戻らず。淵に堕ちもせず。その狭間で。視ることを続けながら。
禁じることはできなかった。視ることを。それはもう自分の一部だった。切り離せば自分が欠ける。なら引き受けるしかない。値のついたこの力を。代償ごと。淵ごと。
窓の外で都の灯がいつものように瞬いていた。その一つ一つがまた深く立体に視えた。苦しいくらいに。だがその苦しさの中にいることが――今は少しだけ正しいことのように思えた。




