喰らう者の末路
その記録を見つけたのはヴェントだった。
名残り仮説が宙吊りのまま終わったあとも、セイルは文書館へ通い続けていた。知りたかった。自分が何者であろうと――その力が最後にどこへ行き着くのかを。
「セイル」ある日、ヴェントが一巻の写本を机に置いた。声がいつになく硬かった。「これを読むべきか迷った。だが――君は知っておくべきだと思う」
黄ばんだ紙に、一頭の竜の挿絵があった。鱗に覆われ、長い尾を持つ巨大な獣。だがその姿のどこかに、奇妙なものが混じっていた。
竜の前肢が――まるで剣を構えるように描かれていたのだ。
「斬竜ヴェルグリント」ヴェントがその名を読んだ。「神秘時代の名のある竜種の一体だ。あらゆるものを断ち、あらゆる刃を弾いたと伝わる」
「竜種」セイルは訊いた。「竜と何が違う」
「竜種は」ヴェントは慎重に言った。「最初から竜だったわけじゃない。元は――人や獣だ。それが祖型に深く接続しすぎて。呑まれて。心も体も組み替えられて――竜になった」
セイルの背筋を冷たいものが走った。
呑まれる。その言葉に心当たりがありすぎた。
修練で石の奥の深みに引きずり込まれかけた。アルヴォの暴走を鎮めたとき、底なしの深みに自分まで呑まれかけた。あの奥へ奥へと引きずり込まれる感覚。あれが――まさにこれなのか。
「このヴェルグリントが」ヴェントは続けた。声がさらに低くなった。「他の竜種と違うのは――元が竜征の英雄だったとはっきり伝わっている点だ」
「英雄」
「ああ。竜を討つ側の剣士だった。祖型に接続して人智を超えた切断の力を得て、幾多の竜種を断った。――だが」
ヴェントは写本の一節を指でなぞった。
「『竜を断つほどに断つ力への接続は深まりき。ある一線を越えしとき断つ力ついに術者自身を呑めり』」
彼は顔を上げた。
「竜を討てば討つほどその力に近づいていく。そしてある日一線を越えて――喰らう側だった英雄が喰らわれる側に転じた。竜を断っていた剣士が自分が断つ竜になった」
セイルは挿絵を見た。剣を構えるように描かれた竜の前肢を。
「この剣みたいな前肢は」セイルはかすれた声で訊いた。
「剣技の名残だそうだ」ヴェントは言った。「竜になっても間合いの取り方や受け流しに英雄だったころの技が残っていたと。――だがそれは自我が残っていたという意味ではない。呑まれきるその手前で肉に固着しただけの残滓だ。心はもうなかった。ただ断つという衝動だけが」
部屋がしんと静まりかえった。
心はもうなかった。
その言葉がセイルの中で反響した。
「じゃあ」セイルはようやく声を絞り出した。「ヴェルグリントは。自分が竜になったって――気づいてたのか」
「分からない」ヴェントは首を振った。「だがおそらく――気づく自分すらもういなかったのだろう。竜種は自我を喰われている。喰らう者がいつ喰らわれる側へ転じるか。それを分かつのは――」
彼は言葉を選んだ。
「力の大小じゃない。自我を保てるか保てないか。そのたった一線だ。どれだけ強くなってもその一線を越えれば――もう戻れない。人として終わる」
セイルは自分の両手を見た。
修練で深みに引きずり込まれかけた手。アルヴォを底なしの深みから引き戻した手。あのとき自分は――どこまで行っていたのだろう。あと少しオルセンが肩を掴むのが遅かったら。あと少しアルヴォの流れを放すのが遅かったら。
自分はあの一線を越えていたのだろうか。
その足でセイルはオルセンのもとへ向かった。
ヴェルグリントの話をすると、老教授は長いあいだ黙っていた。それからぽつりと言った。
「だから私はあのとき止めたのだ」
セイルははっとした。修練で深みを追いすぎて引きずり込まれかけたとき。オルセンは肩を掴んで「戻れ」と叫んだ。その声のめずらしい鋭さを覚えている。
「近づきすぎた者がどうなるか」オルセンは低く言った。「私は知っている。昔――観相派にもいたのだ。深く視ることに取り憑かれた者が。もっと深くもっと奥へと自ら淵へ降りていった者が」
老人の目が暗く沈んだ。
「その者はある日戻ってこなかった。体はここにあった。だが――目の奥にもうその人はいなかった。ただ視るという衝動だけが残っていた。ヴェルグリントと同じだ。喰らう者が喰らわれる側に転じた」
セイルはぞっとした。
神秘時代の伝説の竜だけの話ではなかった。ついこの院の中でも。深く視る者は淵へ降りていける。そして――降りすぎれば戻れない。
「セイル」オルセンはまっすぐにセイルを見た。「お前は誰より深く視られる。それは才だ。だが――誰より深く淵に近いということでもある。お前のその才は英雄の力であると同時に――竜種化へのいちばん短い道でもあるのだ」
その夜セイルは一睡もできなかった。
知りたかった。自分が何者なのかを。
だが調べた末にたどり着いたのは――自分が何者であろうとその力を深めればいつか人ではなくなるという恐怖だった。
村でハルダは言った。英雄と竜は紙一枚の裏表だと。子供のころはただの古い物語だと思っていた。だが今は分かる。あれは自分の話だった。自分の力が向かう先の話だった。
肌のざわつきが闇の中で静かに脈打っていた。
この力を使うたびに。深く視るたびに。自分はあの一線へ少しずつ近づいていく。
使わなければいいとは思えなかった。村でただ垂れ流して苦しんでいたころにはもう戻れない。意志して視ることを覚えてしまった。アルヴォを救えたのもこの力だった。
だが――その同じ力がいつか自分から自分を奪うかもしれない。
セイルは闇の中で自分の手を強く握りしめた。
喰らう者が喰らわれる側へ転じる前に。自分はその一線を見極められるのだろうか。
答えはまだどこにもなかった。




