名残りという仮説
オルセンは竜征記の写しを長いこと見つめていた。
ヴェントが文書館から持ち出した一節をセイルとともに老教授のもとへ持ち込んだのだ。神秘時代の知に通じる者の見立てを聞きたかった。
「『喰らう者と喰らわるる者その相分かちがたし』か」オルセンは皺だらけの指でその一節をなぞった。「懐かしい言い回しだ。観相派にも似た言い伝えがある」
「あんたたちにも」セイルは訊いた。
「ああ。我々は祖型の相を視る。そして古くから言われてきた。――深く視る者と深く呑まれた者は同じ相を宿すとね」老人は茶碗を置いた。「視る者が視られる側へ。喰らう者が喰らわれる側へ。それは地続きなのだ。神秘時代の英雄も現代の観相者も変わらん」
「オルセン様」ヴェントが慎重に切り出した。「率直にお訊きします。――セイルの素質をどう視ますか」
オルセンはしばらくセイルを見た。あの体そのものを透かし見るような目で。
「結論から言えば」老人はゆっくりと言った。「私はこの子のような相を文献の中でしか見たことがない。神秘時代の属人的な接続者――その記述とこの子の相はよく似ている」
部屋の空気が張りつめた。
「つまり」ヴェントの声がわずかに上ずった。「神秘時代の力の名残りが――このセイルに宿っていると」
「それは一つの仮説だ」オルセンは釘を刺すように言った。「だが仮説に過ぎん。証拠は何もない。似ているというだけだ。似ているものを同じだと決めるのは――学問のいちばんやってはならんことだよ」
セイルは黙って二人のやりとりを聞いていた。
名残り。ヴァルダの力の。自分がその遠い末に連なる何かだというその響き。村でただの厄介者だった自分がもしかすると――そう思いかけてまた首を振った。
「それに」オルセンは続けた。「名残りという考え方には大きな穴がある」
「穴」
「血だ」老人は言った。「もしこの子がヴァルダのような英雄の力の名残りだとするなら。それは血で受け継がれたものか? 神秘時代から何十代も薄れずに?」彼は首を振った。「あり得んとは言わん。だが辺境の魔力も薄い村の子に、そんな古い血がなぜ今になってこれほど濃く出る? 説明がつかん」
セイルははっとした。
「じゃあ」セイルは訊いた。「おれのこれは血じゃないのか」
「分からん」オルセンは正直に言った。「だが別の考え方もある」
老人はセイルをまっすぐに見た。
「お前はどこで育った」
「灰櫟村の……はずれの石のそばだ」セイルは答えた。「子供のころからあの石のそばで遊んでた。村の連中は視る石って呼んでた」
「その石が」オルセンの目が鋭くなった。「独りでに灯ったのだろう。お前が村を発つ前に」
セイルはうなずいた。あの夜のことを忘れるはずもなかった。誰も触れていないのに石がひとりでに淡く光を放った。あれがすべての始まりだった。
「それだ」オルセンは言った。「境界石。神秘時代の祖型へ通じる古い装置の名残だ。多くはもう眠っている。だがごく稀に――生きて祖型へ通じる石がある」
「考えてもみろ」オルセンは身を乗り出した。「お前は生まれたときからその生きた石のそばで育った。来る日も来る日も祖型へ通じる窓のすぐ傍で。――もしその石が長い年月をかけてお前の感受の窓を少しずつこじ開けていたとしたら?」
セイルは息を呑んだ。
石が自分を育んだ。血ではなく環境が。あの石のそばで過ごした長い時間が、自分のこの異才を形づくった。
「どちらだ」セイルはかすれた声で訊いた。「おれはヴァルダの名残りなのか。それともあの石がおれをこうしたのか」
「分からん」オルセンはまた同じ言葉を繰り返した。
だが今度はその先を続けた。
「いや――もっと厄介な可能性もある。石がお前を育んだのか。それともお前の素質があの石を灯したのか。育てたのが石ならお前は石の子だ。灯したのがお前ならお前は石を起こすほどの何かを生まれつき持っていたことになる。――どちらが先か。卵が先か鶏が先か。それすら誰にも分からんのだよ」
部屋に沈黙が降りた。
セイルは自分の両手を見た。
名残りなのか。石の子なのか。石を灯した者なのか。どれも可能性として在って、どれも確かではない。知りたかった答えは、つかもうとするほど指の間からこぼれ落ちていった。
「がっかりした顔だな」オルセンがふと笑った。
「……知りたかったんだ」セイルはうつむいた。「自分が何者なのか。なのに調べれば調べるほど分からなくなる」
「いいか、セイル」オルセンの声がふいに優しくなった。「学問はな、分からないことを分からないと言える強さなのだ。分からないものに無理やり一つの答えを貼りつけてはならん。それをやると――」
老人の目が暗くなった。
「お前を一つの物語に押し込めたがる連中の思う壺だ」
セイルははっとした。
カインは自分を「再来」と呼んだ。失われた接続者の生まれ変わりだと。あれも一つの答えを貼りつける行為だった。神秘の側の物語。そしてもし「名残り」だと断定すれば――それもまた別の物語に自分を押し込めることになる。
「答えが出ないのは」オルセンは言った。「悪いことばかりではない。答えが出ない限りお前は誰の物語にもならずに済む。お前はただのお前のままでいられる」
ヨナの言葉がよみがえった。あんたは誰かの生まれ変わりなんかじゃない。あんたはあんただ。
神秘の見習いの少年と学問の老教授が。立場はまるで違うのに同じことを言っていた。
その夜セイルはなかなか寝つけなかった。
名残りという仮説。否定もできず肯定もできない宙吊りの言葉。それは重荷のようでもあり同時に奇妙な自由のようでもあった。
自分が何者か分からない。
だがそれは――まだ何者にもなっていないということでもあった。誰かの決めた物語の続きを生きるのではなく。
肌のざわつきは相変わらず静まらなかった。けれどその夜はなぜか村でハルダの話を聞いた夜ほど怖くはなかった。
答えを急ぐのはやめようとセイルは思った。
まだ知らないことが多すぎる。ヴァルダが本当は何者だったのか。その力が最後に英雄をどこへ連れていったのか。――それを知ってから考えても遅くはない。
その「最後」がどれほど恐ろしいものか、このときのセイルはまだ知らなかった。




