中央から来た男
「――おい君っ」
肩を強く掴まれた。
視界が石の表面へ引き戻される。光の奥の途方もない深さは、瞬きひとつのあいだに薄れ、あとにはただ、淡く光る石柱と荒い自分の息だけが残った。
膝が震えていた。立っているのがやっとだった。掴まれた肩から、見知らぬ手の体温が伝わってくる。それでようやくセイルは、自分がどこにいるのかを思い出した。村はずれの斜面。夜。光る石。そして――
振り返ると見慣れない男が立っていた。
村の者ではない。旅装の上に、村では見ないきちんとした外套を羽織っている。布の織りが、村の誰のものとも違う。歳は若い。セイルより十ほど上だろうか。けれどその目だけが、年齢に似合わぬ鋭さで、セイルの顔と背後で光る石とを、信じられないものを見るように何度も往復していた。
いつからそこにいたのか。セイルは男の足音に、まるで気づかなかった。それくらいあの光に呑まれていた。
「君は……いま何を視た」
男の声は低く、かすかに震えていた。咎める響きではなかった。むしろ――何かを確かめたくて、言葉のほうが先に出てしまった。そういう問い方だった。
セイルは答えられなかった。何を視たのか自分でも分からない。光の奥にあった、あの途方もなく古い気配。あれをどう言葉にすればいいのか。分からない。分からないのに、口にしてはいけないことだけはなぜか分かった。言えば何かが決定的に変わってしまう。そんな予感がした。
黙っているセイルを、男はしばらく見つめていた。やがて問いを引っ込めるように、ふっと息を吐く。
男はそれ以上は問わなかった。代わりにゆっくりと石へ目を移し、ひとりごとのように呟いた。
「薄魔力の辺境で境界石がひとりでに灯る……そんなものは報告のどこにも無い」
報告。境界石。聞き慣れない言葉だった。村では誰もあの石をそんなふうには呼ばない。「視る石」としか。
光はもう消えかけていた。
石は再びただの黒ずんだ石柱に戻ろうとしている。何事もなかったかのように。脈打っていた光が、潮が引くようにゆっくりと薄れ、やがて夜の闇に溶けた。あとに残ったのは、いつもの何の変哲もない石柱だった。
だがセイルの肌には、まだあの引かれる感触が残っていた。指先までしびれるように。あれは自分を呼んだ。村のはずれの誰も来ない斜面で、ずっと――いつから?
幼い頃、初めてこの石の前で動けなくなったあの日から。いやもっと前から。生まれるより前から、あの石は自分を待っていた。そんなありえない考えが、頭の隅をよぎった。
「……ヴェント・サージュだ」男が名乗った。外套の襟を正しながら、改まった声で。「中央の魔法院の者だ。辺境の魔力地理を調べに来た。……まさかこんなものを見ることになるとは」
セイルはその名を知らなかった。中央が何なのかも魔法院が何なのかも、このときの彼はまだ知らない。ヴェント・サージュという名前が、これから自分の人生をどこへ連れていくのかも。
ただひとつだけ確かなことがあった。
この男は見た。石が光るのを。そして自分が――村でただ一人「視る石みたいな子」と呼ばれてきた自分が――その光に呑まれていたのを、はっきりと見た。
明日になれば、村の誰かもこの異変に気づくだろう。光った石のことが村に広まる。そうなれば、人々はきっと噂する。あの夜、視る石みたいな子が石のそばにいたと。
便利な勘なら頼りにされた。だがこれは違う。石がひとりでに光ったのだ。そんなものは村にとって、「祟り」でしかない。そして祟りの噂が立てば、「視る石みたいな子」はもう遠巻きにされるだけでは済まない。
セイルは自分の居場所が、いま静かに崩れ始めたのを感じていた。
冷たい夜風が斜面の枯れ草を撫でて通り過ぎた。ヴェントはまだ石を見つめている。セイルはその横顔から目をそらし、暗い村のほうへ視線を落とした。
どの家にもまだ明かりは灯っていない。村は何も知らずに眠っている。
その静けさがなぜかひどく遠いものに感じられた。




