灯る石
夜の灰櫟村は世界の果てのように静かだった。
寝つけなかった。
昼間のティナの言葉が、まだ胸の底に残っている。変なあんたがあんた――その言葉を何度も裏返しているうちに、いつのまにか夜は更けていた。寝床で寝返りを打つたび、薄い毛布が冷たい場所に触れる。隣の寝床では、ハルダの規則正しい寝息が聞こえていた。
セイルはそっと身を起こした。
起こさないように土間へ降り、水甕から水を一杯飲む。冷えた水が火照った頭の中を、少しだけ静めてくれた。それでも眠気は戻ってこない。
板戸を音を立てないように開ける。
外の冷気が頬を刺した。空には厚い雲。月も星も見えない。村は深い闇に沈み、どの家からも明かりは漏れていない。みなとうに眠っている。
冷たい夜気が火照った頭にちょうどよかった。少し歩こうとセイルは思った。
そしていつものように足は村はずれの斜面へ向かう。
夜にここへ来るのは初めてではなかった。眠れない夜、セイルはよくこの斜面の下まで来て、ただ石を遠くから眺めて帰る。近づきはしない。昼間に近づけないものに、夜近づけるはずもない。それでもここに来ると、なぜか少しだけ呼吸が楽になった。それが自分なりの折り合いのつけ方だった。
斜面を見上げてセイルは足を止めた。
その夜石はいつもと違った。
はじめセイルは、月明かりが雲の切れ間から差したのだと思った。斜面の上の石がほのかに白んで見えたからだ。だが空を仰いでも、雲は厚く垂れこめたままで、月のかけらも覗いていない。星ひとつ見えない。
光は石そのものから滲んでいた。
心臓がひとつ大きく鳴った。
気づいたときには、もう一歩踏み出していた。淡い光は消えそうで消えず、脈を打つようにゆっくりと強さを変えながら、確かにそこに在った。蛍火のようでもあり、もっと深いもののようでもある。火ではない。灯火精の光とも違う。こんな光を、セイルは一度も見たことがなかった。
夢ではないかと思った。頬をつねるかわりに冷たい夜気を深く吸い込む。痛いほど冷えた空気が肺を満たす。夢ではない。
足が勝手に石へ近づいていく。やめろと、頭のどこかが言っている。昼間でさえ近づけなかった石だ。それが光っている。近づいていいはずがない。それでも足は止まらなかった。
「……なんだこれ」
声が掠れた。
石まであと数歩というところで、肌のざわつきが――いつものあの皮膚の下がうごめく感覚が――急に深く強くなった。これまで感じたどれとも桁が違う。ざわつきではない。引かれている。確かに引かれていた。石の奥の、見えないどこかへ。
逃げなければと思った。同時に、もっと近くで視たいとも思った。相反する二つの衝動に、体が引き裂かれそうになる。
そして視えた。
うまく言葉にできない。光の奥に奥行きがあった。石の厚みではない、もっとずっと遠い場所から、何かがこちらを向いている。向けているのではなく――もとからそこに在って、ただ今夜だけ、こちらと向き合う角度に合わさったような。
そこに何が在るのか、セイルには分からなかった。
形もない。色もない。ただ――途方もなく古い何かが、ずっと前からそこに在った。いつからかも分からないほど昔から。それが今夜、初めて目を開けた。気配だけが、彼の身の内をまっすぐに通り抜けていく。
昼間、夕日の中で感じたあの懐かしさ。あれの何十倍も深いものが、いま光の奥から押し寄せていた。
懐かしいと思った。それだけで喉の奥が塞がるようだった。




