視る石
その日の夕暮れ、羊を囲いに入れ終えたあと、セイルの足はまた村はずれの斜面のほうへ向かった。
行かないと朝に言ったばかりだった。ハルダにもそう答えた。それでも足は向く。いつものことだった。日が傾くと、決まってこの斜面のことが頭をよぎる。引き寄せられるというほど強いものではない。ただ行かずにいると、どこか落ち着かない。歯の抜けた跡を舌で確かめてしまうような、そんな小さな疼きだった。
斜面のてっぺんには古い石が一つ立っている。
村の者が「視る石」と呼ぶ、背丈ほどの黒ずんだ石柱。表面にはひどく擦れた何かの模様らしきものが残っているが、長い年月に削られて、もう何が彫られていたのかは読み取れない。誰がいつ据えたのかは、誰も知らない。ハルダでさえ「ばあさまのそのまたばあさまの頃にはもうあった」としか言わない。
セイルがこの石を「視る石」と呼ばれる理由を作ったのは、たしか六つか七つの頃だった。
村の子らと斜面で遊んでいたとき、セイルだけが石の前で動けなくなった。石の奥に何かがある気がした。覗き込もうと顔を近づけて――そのまま長いこと、身じろぎもせずに見入っていたらしい。気づいたときには、子らは遠巻きにこちらを見て、ひそひそと囁き合っていた。
あの石をあんなふうにじっと視るなんて。視る石みたいな子だと。
それからその呼び名は消えなかった。
近づくと肌がざわつく。皮膚の下の何かが、ひとつひとつの粒を確かめるようにじわりと動く。魔力の薄いこの土地でこんなものを感じるのは、自分だけらしい。村の子らも大人たちも、石はただの石だと言う。何も感じないと。
ならば感じてしまう自分のほうがおかしいのだ。
セイルは石の手前で足を止めた。
今日は近づくのはやめておこう。そう思った。近づけばまた肌がざわつく。あの感覚に今日は向き合いたくなかった。確かめてしまえば、自分がまた一歩、村の者と違うところへ行ってしまう気がする。
遠くから石を眺める。
日が沈みかけて、空が赤く灼けていた。斜面の枯れ草が夕日を受けて、金色に揺れている。その向こうに、石は黒く沈んで立っていた。石はただの石だった。何も光ってなどいない。当たり前のことだった。
なのになぜだろう。
この石を見ていると、ときどきひどく懐かしいような、それでいて寂しいような、名のつけられない気持ちになる。まるでずっと昔に、ここで誰かと交わした約束を思い出せないままでいるような。そんなはずはない。生まれてからずっと、この村しか知らないのに。
「……ばかばかしい」
セイルは自分の感傷を振り払うように踵を返した。
石を振り返りはしなかった。振り返れば、また足が止まる。それが分かっていた。
斜面を下りながら、セイルは思う。明日は石のことは考えまい。囲いも直した。羊も数えた。冬支度もまだ半分残っている。やるべきことはいくらでもある。あの石のことなど忘れてしまえばいい。
いつもそう思って、いつも忘れられずにいた。
その夜、灰櫟村はいつもより静かだった。風さえ息をひそめているようだった。
斜面のてっぺんであの石がひとりでに灯り始めていることを――セイルはまだ知らない。




