竜の時代の名残
石の話を聞いた数日あとの夜だった。
またゴルド爺がハルダの家に来ていた。今度は冬の祭の相談だった。
「そろそろ」ゴルド爺が言った。「霜止めの祭の支度をせにゃならん。今年は誰に火を任せる」
「火なら」ハルダが答えた。「ロウのせがれがいいだろう。あの子は手が丁寧だ」
霜止めの祭。冬の初めに村で毎年行うささやかな祭だ。村はずれの古い窪地に火を焚いて、一晩絶やさずに見守る。セイルは子供のころから、その火を遠くから眺めてきた。
「あの窪地は」セイルはふと訊いた。「なんで毎年火を焚くんだ」
ゴルド爺がしわがれた声で笑った。
「さあてな」ゴルド爺は言った。「霜を止めるためと言うが、あんな火で霜が止まるものか。本当は――もっと古いわけがあるんだ。だがそれも忘れられちまった。ただ火を焚け、絶やすなと。それだけが伝わってきた」
「忘れられてる」セイルは呟いた。石の祈りと同じだと思った。
「あの窪地はな」ゴルド爺は声を落とした。「うんと昔は、近づいちゃならん場所だったと言う。竜の時代の何かがあったとな」
「竜の時代?」
「ああ」ゴルド爺は頷いた。「神秘時代とも言うな。学問なんてものが影も形もなかったころ。空に竜がいたという。本当か嘘か、わしにも分からん。だが――そのころの何かが、この辺りにはぽつぽつと残ってる。あの窪地も、村はずれの石も。みんな竜の時代の名残だと言われとる」
竜の時代。
その言葉がセイルの胸に奇妙な重さで落ちた。
空に竜がいた。途方もない災いの獣が。そんな時代が本当にあったのか。今はもう誰も竜など見たことがない。物語の中だけの、古い恐ろしい影。だがその時代の名残が、この何でもない辺境の村の暮らしの中に。火を焚く祭として、近づくなという禁として。今もひっそりと息づいていた。
「その窪地に」セイルは訊いた。「近づいちゃならないのはなんでなんだ」
「分からん」ゴルド爺はあっさり言った。「ただ昔の人がそう決めた。きっと何かあったんだろう。恐ろしい何かが、竜の時代には。だから近づくな、火で清めろと。――わしらはその理由も知らんまま、ただ言いつけを守ってる。それが辺境ってもんだ。古い畏れを抱えたまま暮らしてる」
セイルはふとその窪地のことを思い出した。
子供のころ一度だけ、祭でない日にあの窪地に近づいたことがあった。村の子らと隠れんぼうをして。あのとき――肌がざわついた。あの石の前に立つときと似た、ざわつき。何か古いものが、地の底に眠っているような。
あれは、とセイルは思った。気のせいだと思っていた。だが今ゴルド爺の話を聞くと、あの窪地にも石と同じ何かがあるのかもしれなかった。竜の時代の名残が。
石も窪地も。村の暮らしのあちこちに、古い畏れの種が埋まっていた。誰も中身を知らぬまま、ただ畏れと言いつけだけを継いで。
「ゴルド爺」セイルは訊いた。「竜の時代って――どんな時代だったんだ」
「知るものか」ゴルド爺は笑った。「わしが生まれる何百年も何千年も前の話だ。だが語り草にはこう残ってる。竜が空を覆い、人はその影に怯えて暮らしたと。そして――その竜を討つ者もいたと」
討つ者。
その一言にセイルの肌がまたざわついた。
「竜を討つ?」セイルは訊き返した。「あんな大きな災いの獣を人が」
「いたと言うな」ゴルド爺は遠くを見るように言った。「だがそれも、古い英雄譚の中の話だ。本当か嘘か。――ハルダのほうが詳しいだろう。あいつはそういう古い物語を、いくつも覚えとる。子守唄がわりに聞かせてもらうといい」
ハルダが囲炉裏の向こうで小さく笑ったようだった。だがその夜は何も語らなかった。
ゴルド爺が帰ったあと。
セイルは寝床でその話を転がした。
竜の時代。空を覆う竜。それを討つ者。火を焚く祭。近づくなという窪地。そしてひとりでに光る石。
みんな古い忘れられた何かの名残だった。誰も中身を知らない。ただ畏れと言いつけだけが残っている。学問の明るい都とは、まるで違う世界。理屈で割り切れない、古く暗い畏れに満ちた辺境。
その暗い畏れの中に、自分は生まれ育った。そして――その畏れの種の一つであるあの石に。なぜか自分だけが惹かれていた。
なぜだろうと、セイルはまた思った。村の皆が畏れて近づかないものに、自分だけが引き寄せられる。まるで自分もその「竜の時代の名残」の一つであるかのように。
馬鹿げていると打ち消した。自分はただの村の子だ。少し変わった目を持つだけの。竜の時代の名残なんて、そんな大それたものであるはずがない。
だが肌のざわつきは、その夜もなかなか収まらなかった。明日もまた、自分はあの斜面へ足を向けるのだろう。畏れと惹かれの狭間で。竜の時代の名残に引かれるように。




