古文書庫の番人
竜征記を書き写し終えたヴェントがふと言った。
「これより古い記録を当たるなら」ヴェントは言った。「古文書庫のヴェスパ翁を訪ねるといい。誰も読まぬ古い英雄譚や禁書の在処をあの方は知っている。――気難しいが記録のことなら右に出る者はいない」
古文書庫は学院のいちばん奥の地下にあった。
黴と古い紙の匂いが立ち込めていた。その奥で、骨と皮ばかりに痩せた老人が巻物の山に埋もれるように座っていた。ヴェスパ翁。家名はとうに失われ、ただ「ヴェスパ翁」と呼ばれる古文書庫の番人。
「ヴァルダだと?」
訪いを告げると、ヴェスパ翁は濁った目でセイルをじろりと睨んだ。
「祖喰いのヴァルダ。神秘時代の英雄。――今どきそんなものを調べに来る若造がいるとはな」老人はしわがれた声で言った。「竜征記ならもう読んだのだろう。あれはいちばん有名な写しだ。だが――あれだけでは足りん」
「足りない?」
「竜征記は」ヴェスパ翁は巻物の山をかき分けながら言った。「後世の学者が整えた写しだ。読みやすいが――そのぶん削られている。都合の悪いところが。本当のヴァルダはもっと古い断片の中にいる」
老人はいくつかの古いぼろぼろの冊子をセイルの前に積み上げた。
「読んでみろ」ヴェスパ翁は言った。「同じヴァルダのことを書いている。だが――少しずつ違う」
セイルは文字をたどった。ヴェントが横で難しい古語を訳してくれた。
確かに違った。
ある記録は、ヴァルダを純然たる英雄として描いていた。竜を討ち、人々を救い、英雄のまま天寿を全うしたと。
別の記録はもっと暗かった。ヴァルダは竜を討つたびに、竜に近づいていったと。祖型を喰らえば喰らうほど、自らも喰らう者になっていったと。そして最期は――定かでない。竜に堕ちたとも。燃え尽きたとも。ただ消えたとも。
また別のもっとも古い断片にはこうあった。「喰らう者と喰らわるる者相分かちがたし」。
「どれが」セイルは訊いた。「本当なんですか」
「分からん」ヴェスパ翁はあっさり言った。「どれも本当かもしれん。どれも嘘かもしれん。伝承というのはそういうものだ。語る者が語りたいように語る。英雄譚にしたい者は英雄に書く。戒めにしたい者は堕ちた者に書く。――真実はそのいちばん奥に埋もれて誰にも見えん」
セイルはその断片を視た。
文字を読むだけではなかった。肌で。古い紙に染み込んだ書き手の畏れのようなものを。ヴァルダの名を書くとき何百年も前の書き手たちが感じていた何か。
英雄であり化け物。救い手であり災い。紙一重のその境を、書き手たちは畏れていた。だからこそ、ある者は英雄に、ある者は堕ちた者に書き分けた。どちらも同じ畏れの裏表だった。
そしてその畏れは――セイルの肌に覚えのあるざわつきを呼び起こした。
自分も同じだった。学問には化け物と。神秘には英雄の再来と。書く者によってまるで違うものにされる。ヴァルダと同じだった。一つの分からないものを人々が好きなように語り分ける。
「なぜ」セイルは思わず訊いた。「ヴァルダはこんなに伝承が分かれるんですか」
「分からんものは」ヴェスパ翁は言った。「分かれるのだ。人は分からんものを分からんまま置いておけん。だから物語を貼りつける。英雄だ化け物だとな。――分からんものほどたくさんの物語が生える」
帰り際ヴェスパ翁がふと思い出したように言った。
「お前、辺境の出だと言ったな。どこの」
「ロウラント辺境州の灰櫟村です」
ヴェスパ翁の濁った目がわずかに動いた。
「灰櫟か」老人は低く呟いた。「聞いたことがある。辺境では――石が独りでに灯るという古い物語があるそうだな。そういう土地の」
セイルの心の臓が跳ねた。
「ご存じなんですか」
「いいや」ヴェスパ翁は首を振った。「ただの古い言い伝えとして聞いたことがあるだけだ。辺境にはそういう古い物語がぽつぽつと残っている。神秘時代の名残のようなものがな。――だが誰もその中身は知らん。ただ語り継がれてきたというだけだ」
石が独りでに灯る。古い物語。神秘時代の名残。
その言葉がセイルの胸に重く落ちた。村の視る石。半年前独りでに灯ったあの石。あれは――ヴェスパ翁の言うその「古い物語」の一つだったのだ。中身を誰も知らない神秘時代の名残。
まさかと思った。あの石とヴァルダの伝説。そして自分の視る力。それらが頭の中で薄く繋がりかけた。
だが――断定はできなかった。すべて宙吊りのままだった。石もヴァルダも自分も。分からないものが三つ。それらがどこかで繋がっている気がする。だがその繋がりはまだ視えなかった。
古文書庫を出てセイルは地下の階段を上った。
分からないことが増えただけだった。だが――その「分からなさ」の輪郭は少しずつ見えてきていた。ヴァルダも村の石も自分も。どれも神秘時代の何かの名残かもしれない。喰らう者と喰らわるる者の分かちがたい何かの。
それが希望なのかそれとも恐ろしい何かの始まりなのか。
セイルにはまだ分からなかった。ただ調べれば調べるほど足元の地面が薄く頼りなくなっていくのを感じた。




