神秘から見た眼
ヨナに連れられてもう一度房を訪れたその帰りぎわだった。
部屋の隅で一人の年老いた徒がずっとこちらを見ていた。
白いひげの痩せた老人だった。儀礼のときも輪のいちばん外で低く和すだけの寡黙な男。誰ともほとんど口をきかなかった。だがその目だけはさっきからじっとセイルに注がれていた。
セイルが戸口へ向かおうとしたとき。
その老人がふいに口を開いた。
「待ちなされ」
しわがれた低い声だった。セイルは足を止めた。
「お前さん」老人はセイルを見据えたまま言った。「カインはお前さんを再来だと言う。あのリノとかいう若いのは旗印だと言う。――わしはどちらも思わん」
セイルは身構えた。老人の目にはヨナのような羨望もなかった。リノのような怨みもなかった。ただ――もっと古い何かがあった。
「わしには」老人は低く言った。「お前さんがただ――恐ろしい」
「恐ろしい?」セイルは訝しんだ。
「ああ」老人は頷いた。「わしは長くこの道にいる。聴く者として何十年も。祖型の流れのほんの端っこに触れてきた。そのたびに――畏れた。あれは人の触れてよいものではない。触れれば削られる。深く触れすぎれば――戻れなくなる。わしらは戒をもって。決して深くは触れぬよう身を慎んできた」
老人の目が細くなった。
「だがお前さんは」老人は続けた。「生まれつきそれを視るという。戒も修練もなしに。畏れも知らずに。――それがわしには恐ろしい。火を畏れぬ者が火を握っているようで」
セイルの肌がざわついた。
老人の中にあるのは純粋な畏怖だった。セイルという人間へのものではなかった。セイルの持つ力への。祖型へ無造作に触れてしまうその異才への。古い宗教的な畏れ。
「昔」老人はぽつりと言った。「お前さんのような目をした者がいたと聞く。ずっとずっと昔に。祖型に深く触れて。大きなことを成した者が。だがその者は――」
老人は言葉を切った。それから首を振った。
「いや。古い言い伝えだ。確かなことは分からん。ただ――その者の行く末はよくはなかったとだけ。深く触れた者の行く末は。たいていよくはない」
セイルの胸がざわついた。
昔同じような目をした者がいた。祖型に深く触れた者。その行く末はよくなかった。――村のハルダの語った話がよぎった。祖型を喰らった英雄。怪物と紙一重だった者。だがセイルは、それを深くは追わなかった。追えばまた村の石へ繋がる気がした。老人もそれ以上は語らなかった。
確かなことは何も分からなかった。ただ引っかかる。それだけが残った。
「わしは」老人は最後に言った。「お前さんを迎え入れることに反対だ。カインは再来としてお前さんを欲しがる。だがわしは――こういう戒を知らぬ力が房に入ることが怖い。お前さんが悪い者だとは言わん。だが力は持ち主の善し悪しとは別に災いを呼ぶ。火を握る子どものように」
老人はそれだけ言うとまた輪のいちばん外へ戻っていった。寡黙な低い和す声に戻って。
セイルはしばらくその背を見ていた。
房を出てヨナと夜道を歩きながら。
「悪かったな」ヨナがぼそりと言った。「あの爺さんは……ドルガって呼ばれてる。房でもいちばんの古株だ。ああいう考えの人もいる。お前を再来だって持ち上げる連中ばかりじゃない。怖がる人もいるんだ」
「いいんだ」セイルは言った。「むしろ――あの人のほうが正直かもしれない」
ヨナが怪訝そうにセイルを見た。
「考えてみろ」セイルは低く言った。「カインさんはおれを再来として欲しがる。リノは旗印として利用しようとする。お前は――おれをおれとして見ようとしてくれる。そしてあの翁はおれをただ恐ろしいものとして畏れる。――みんな別々の目でおれを見てる。同じ房の中で。神秘ってのも一つじゃないんだな」
「……まあな」ヨナは頷いた。「房だって人の集まりだ。考えはばらばらさ」
その夜下宿へ戻る道で。
セイルは考えた。
学問の都では自分は化け物であり観測器だった。記述できない異常として解剖の対象にされた。視られる対象に。
神秘の房でも――結局自分は視られる対象だった。再来として。旗印として。恐ろしいものとして。それぞれの眼差しで。学問が自分を定規の上に置いて視るように。神秘もまた自分をそれぞれの物語や畏れの上に置いて視ていた。
視る者であるはずの自分が。どこへ行っても視られていた。
その皮肉にセイルは苦く笑った。観相は視る異才だ。なのにその異才ゆえに自分は誰よりも視られる存在になっていた。学問の眼に。神秘の眼に。誰もが自分のその目を覗き込もうとする。だが――誰一人その目の奥にいるセイル・ロウラントを見ようとはしなかった。
ただ一人。
ヨナだけがおれをおれとして見ようとしかけていた。そのことをセイルはもう一度思った。完全には分かっていない。羨望も消えていない。だが――再来でも旗印でも恐ろしいものでもなく。ただのセイルとして。
それはたった一人だった。学問にも神秘にもたった一人ずつ。学問のセレナ。神秘のヨナ。完全には分かってくれない。でも物語に押し込めもしない。岸に立ってこちらを見ようとする者。
そういう者が両岸に一人ずついる。それだけで十分なのかもしれないとセイルは思った。すべての眼に分かってもらおうとは思わない。ただ岸に立つ者がぽつぽつといてくれれば。
まばゆい都の灯りがまた目に痛かった。だがその痛みの中を、セイルはまっすぐ歩いた。視られる側であることを引き受けながら。それでも自分の足で。




