書けぬ魔法の値
数日後、ヨナがまた訪ねてきた。
だが、いつもと様子が違った。声がかすれていた。喉のあたりをしきりにさすっていた。顔色も悪かった。
「どうした」セイルは訊いた。「具合でも悪いのか」
「いや」ヨナは首を振った。「修練だ。――昨日夜通し唱えてた。新しい真名を一つ。カインさんから授かったやつを。声で体に入れる」
「声で入れる?」セイルは聞き返した。
「ああ」ヨナはしゃがれた声で言った。「神秘の魔法は書けない。知ってるだろ。古語の真名は書き写したら力を失う。だから――師の声を聞いて。それを自分の声で何百回も何千回も唱えて。体に刻み込むしかない。書き取れないから忘れたらそれまでだ。だから忘れる前に声で体に焼きつける」
セイルはヨナの喉を視た。
荒れていた。声を酷使したただの嗄れではなかった。もっと奥のほうで――何かが削られていた。声を紡ぐたびに。喉のその奥のもっと深いところから。
「それ」セイルは低く言った。「ただの唱えすぎじゃないな。何か――削れてる。お前の中から」
ヨナの目が見開かれた。
「……視えるのか」ヨナはかすれた声で言った。「そこまで」
「ああ」セイルは頷いた。「真名を唱えるたびに。お前の喉の奥の何かが少しずつ。寿命の一片か。生命の熱か。あの儀礼で視たのと同じものだ。みんなが削っていたあれと」
ヨナはしばらく黙っていた。それからふっと口元を歪めた。自嘲のような笑みだった。
「……そうだよ」ヨナは言った。「口伝ってのはそういうもんだ。書ける魔法なら巻物に書いといて必要なときに読めばいい。代償は使うときだけ払えばいい。――でもおれたちの魔法は書けない。だから覚えること自体が代償なんだ。一つの真名を体に入れるのに何ヶ月も声を振り絞って。そのたびに削れていく。覚えるってことがもう命を削る行いなんだよ」
セイルは言葉を失った。
学問の魔法は書ける。術式を紙に書き留めておけば。何度でも読み返せる。覚える分の代償はない。書いてあるから。代償を払うのは実際に発動するそのときだけ。
だが神秘の魔法は――書けない。だから覚えることそのものが、削る行いになる。声で継ぐしかないから。一つの真名を身に刻むのに、ヨナは自分の寿命の一片を焚べていた。まだ何の役にも立たない修練の段階で、すでに。
「割に合わないな」セイルは思わず言った。「学問の魔法なら――書いとけば覚える手間も削れる代償もない。なのにお前たちは。覚えるだけで命を削ってる」
「割に合わないさ」ヨナはあっさり認めた。「でも――書ける魔法には祖型への直接の道はない。学問の連中は術式って回り道で祖型を間接になぞるだけだ。おれたちは真名でじかに祖型に触れる。その代わりに――書けない。だから覚えるのに命を払う。それが神秘の値段なんだ」
セイルはあの儀礼の夜を思い出した。
カインが言っていた。学問は代償を計量する。だが我々は引き受けると。あのときは心構えの違いだと思っていた。だが――違った。神秘は計量しないのではなく計量できないのだ。書けないから。割り切れないから。だから引き受けるしかない。命を削りながら声で継ぐしか。
学問の等価交換。神秘の口伝。形はまるで違う。だが――そのいちばん底では同じだった。代償なしに力はない。書ける魔法も書けない魔法も。その一点ではまったく平等だった。どちらも何かを差し出さねば。何も起こせない。
「なあ」ヨナがふいに訊いた。「あんたのその視る力は。代償ないのか」
セイルは口をつぐんだ。
代償は――あった。
呑まれかけたあの夜。深く視れば、視られるものへ堕ちる。視る力もまた淵を抱えていた。そしてふだんから。視えすぎることで人と隔たり、化け物と畏れられる。それも代償と言えば代償だった。視えるという力の。
「ある」セイルは低く言った。「視えすぎて――人から隔たる。深く視すぎたら自分が自分でなくなりかける。たぶんこれも。何かを差し出してるんだ。視るっていう力のために」
「だよな」ヨナはしゃがれた声で笑った。「ただで特別な力が手に入るほど世界は甘くない。学問の天才だって。あのアルヴォとかいう化け物だって。きっと何かを払ってる。――タダのものなんてどこにもないんだよ。書ける魔法にも。書けない魔法にも。あんたの目にも」
ヨナが帰ったあと。
セイルは自分の手と目を思った。
タダのものなんてどこにもない。ヨナのそのしゃがれた声が胸に残った。神秘の徒は覚えるだけで命を削る。学問の徒は量を注いで器をすり減らす。そして自分は――視るたびに人から隔たり、淵に近づく。
誰もただでは力を持てなかった。アルヴォも。ヨナも。自分も。みなそれぞれの値を払いながら、それぞれの力を抱えていた。
その当たり前のことが。今初めて深く腑に落ちた。
なら――とセイルは思った。自分も払えばいい。視るという力のために。隔絶という代償を。淵に近づく危うさを。それを引き受けて。視ることを続ければいい。ヨナが命を削って真名を継ぐように。
逃げるのでもなく。誇るのでもなく。ただ値を払って持っているものを使う。それが力を持つ者の果たすべき筋なのかもしれなかった。
その夜セイルは自分の両手をもう一度見た。
以前のようにそれを欠陥だとは思わなかった。誇らしいとも思わなかった。ただ――値のついた力だと思った。払うべき代償の伴う力だと。
ヨナの削れた喉。儀礼の徒たちの削れた身。その姿がなぜか自分の視る力と遠く響き合っていた。同じではなかった。だがどこか似ていた。書けない口伝と記述できない視る力。どちらも紙には収まらない。だからその身で引き受けるしかない。
似ているとは思った。だが――同じだとまでは言えなかった。そのおぼろげな境目をセイルはあえて踏み越えなかった。確かめればまた村の石へ繋がってしまう気がした。今は似ているというところで。止めておいた。




