過ぎたる信徒
その男に声をかけられたのは房を出ようとしたその時だった。
「待てよ、再来さん」
振り向くと、若い男が壁にもたれていた。痩せた体に鋭い目。家名を捨てた者の崩れた通称で、リノと呼ばれていた。あの夜房の隅で、唱える徒たちの輪に加わらず、ただこちらを睨むように見ていた男だった。
「あんたが噂の再来か」リノは薄く笑った。だが目は笑っていなかった。「魔力もないのに祖型を視るっていう。学問に弾かれた化け物。――いい。実にいい。あんたはおれたちの旗印になれる」
「旗印?」セイルは訝しんだ。
「そうだ」リノの目がぎらついた。「考えてもみろ。学問の都が化け物と呼んで弾いた者が。実は神秘の再来だった。学問の物差しが測れなかった本物の才だった。――これ以上の皮肉があるか。あんたを掲げればおれたちは学問の傲りを打ち砕ける」
セイルの肌がざわついた。
リノのまとう空気は、ヨナとはまるで違った。ヨナの中にあったのは、救われた者の感謝と羨望だった。だがリノの中にあるのは――怨みだった。学問への煮えたぎるような憎悪。それがリノの全身から滲み出ていた。
「あんた」セイルは低く言った。「学問を憎んでるのか」
「当たり前だ」リノは吐き捨てた。「学問はおれたちからすべてを奪った。神秘を迷信と呼び、おれたちの先祖の知を捨てさせた。おれの家も――神秘を捨てなかったというだけで取り潰された。だからおれは家名を捨てた。学問の都の序列なんぞ糞食らえだ」
「リノ」
声がしてヨナが二人の間に割って入った。
「やめろよ」ヨナはリノを睨んだ。「あんたのその話は。セイルは旗印なんかじゃない。ただの――おれたちと同じ弾かれた者だ」
「同じ?」リノは鼻で笑った。「こいつは再来だぞ。おれたちの何百年の悲願の。それをただの弾かれ者と一緒にするな。――ヨナ、お前は甘いんだよ。救われて、感謝して、それで満足してる。だがそれじゃ何も変わらない。学問はこれからもおれたちを踏みつけ続ける。誰かが――やらなきゃならないんだ」
「やるって」セイルは警戒した。「何をする気だ」
リノの目が暗く光った。
「いろいろある」リノは低く言った。「学問の自慢の魔晶炉を止めることも。連中の記録庫を灰にすることも。――禁制の魔法を使えばできる。代償は重い。だが神秘を守るためなら。おれは命だって惜しまない」
セイルの背筋が冷えた。
禁制の魔法。それを使って学問の都に害をなす。リノは本気だった。視えた。その覚悟が。神秘を守るという大義の下に燃えさかる報復の炎が。
「だめだ」セイルは思わず言った。「そんなことをしたら罪のない人まで巻き込む。あんたの憎んでる学者だけじゃない。魔晶炉が止まれば街の灯りが消える。記録庫が燃えれば――」
「だから何だ」リノは遮った。「巻き込まれる連中も学問の恩恵にあぐらをかいてきた者たちだ。神秘を捨てた側の人間だ。罪がないとは言わせない」
「それは」セイルは言い返した。「あんたを家を奪った学問と同じ理屈だ。神秘を捨てなかったから取り潰す。学問に与したから巻き込んでいい。――どっちも人を十把一絡げに裁いてる」
リノの顔がこわばった。
一瞬その目に揺らぎが走った。だがすぐにそれを怒りで塗り潰した。
「……青いな、再来は」リノは低く言った。「まあいい。あんたが旗印になる気がなくても。おれはおれのやり方でやる。せいぜいその目で見ていろ。神秘がどう学問に報いるかを」
リノは踵を返し闇の中へ消えていった。
あとにヨナとセイルが残された。
「悪い」ヨナがぼそりと言った。「あいつは……ああいう奴なんだ。怒りで目が見えなくなってる。カインさんもあいつのことは持て余してる。止めようとはするんだが――房は命令で動く組織じゃないからな。あいつが勝手に何かする分には止めきれない」
「カインさんは」セイルは訊いた。「リノを止めないのか」
「止めると思う」ヨナは自信なさげに言った。「たぶん。カインさんはもっと長い目で見てる人だ。あんたを再来として迎えて、神秘を立て直そうとしてる。リノみたいな短絡的な報復は望んでない。――でもリノみたいな奴も房にはいる。神秘は優しいだけじゃない。前に言っただろ」
セイルは頷いた。
神秘は優しいだけじゃない。その言葉の本当の意味を今知った。房の温かさのすぐ隣に。報復の炎が燃えていた。救いを求めた者と怒りに駆られた者が。同じ地下室にいた。
地上へ戻る道でセイルは考えた。
神秘の誘い。カインはそれを甘く優しく差し出した。お前を測らない。お前を化け物とは呼ばないと。だが――その甘い淵のすぐ隣に。リノのような怒りの淵が口を開けていた。
もし自分が神秘に身を委ねたら。最初はヨナのように救われるのかもしれない。だがその先には、リノのような報復の道も待っていた。神秘を守るという大義が、いつか人を裁き害する刃に変わる。Bの淵は一つではなかった。甘い淵と怒りの淵。どちらも自分を呑み込もうと口を開けていた。
学問にも神秘にも踏み出せない。これまではただ決められないだけだと思っていた。だが――今は少し違った。どちらの淵も自分を自分でないものに変えようとしている。化け物に。再来に。あるいは報復の旗印に。
だから踏み出せないのではなく――踏み出してはいけないのかもしれない。
そのおぼろげな確信がセイルの胸に初めて芽生えた。狭間に立つことはただの優柔不断ではないのかもしれない。それはどちらの淵にも呑まれないための踏みとどまりなのかもしれなかった。
都の灯りが冷たく、しかし確かに街を照らしていた。その灯りの一つ一つがリノの言う「魔晶炉」によって灯されていることを、セイルは思った。あの灯りを守りたいと、ふと思った。学問のためでも神秘のためでもなく。ただあの灯りの下で暮らす、名もない人々のために。




