神秘の手招き
使者が訪ねてきたのはそれから三日後の夜だった。
下宿の戸を叩いたのは、セイルと年の近い痩せた青年だった。粗末な外套をまとい、目だけが妙に強い光を持っている。
「あんたロウラントさんだろ」青年はぶっきらぼうに言った。「ヨナだ。カインさんの使いで来た」
カイン。あの川辺の男。あの夜以来、セイルはあの黒い炎のことを何度も思い出していた。
「カインさんが会いたいと」ヨナは言った。その口調にはどこか棘があった。「来るか来ないか。決めるのはあんただ。――おれは別に来てほしいわけじゃないけどな」
最後のひと言は小さく吐き捨てるようだった。
セイルは戸惑った。この青年は明らかに自分を歓迎していなかった。なのに、わざわざ使いに来ている。
「……行く」セイルは答えた。
惹かれていた。半分は確かに。学問の都で化け物と畏れられた今、「人として迎える」と言ったあの男のもとがどんなところなのか――視てみたかった。
ヨナに連れられてセイルは夜の都の裏のほうへと入っていった。
まばゆい大路を外れ、細い路地をいくつも抜ける。魔法照明の光がだんだん届かなくなっていく。やがてたどり着いたのは、川沿いの古びた倉庫のような建物だった。表からはただの空き家にしか見えない。
ヨナが低い声で何かを唱えた。古い言葉だった。すると、閉ざされていた扉が音もなく開いた。
中は思いがけず広かった。
薄暗い灯りの下に十人ほどの人影があった。老人も、若者も、女も男もいた。皆質素な身なりで、静かに何か作業をしていた。古い巻物を写す者。低い声で何かを唱え合う者。
「房だ」ヨナがぶっきらぼうに言った。「黒鍵の徒の末端の細胞。おれたちはこうやってあちこちに散らばって、学問が捨てたものを守ってる」
肌のざわつきが、この場所の独特の流れを捉えていた。学問の都の整然とした魔力とはまるで違う。もっと古く、雑多で、生々しい。けれど――不思議と嫌な感じはしなかった。
そして何より。
ここにいる人々はセイルを見ても畏れなかった。遠ざかりもしなかった。むしろ何人かが静かな会釈をよこした。歓迎するように。
村でも学問の都でもなかったことだった。
「よく来てくださった」
奥からカインが現れた。あの夜と同じ穏やかな目で。
「ここがあなたの言っていた」セイルは室内を見回した。「鍵の向こう側か」
「入口のそのまた入口に過ぎませんがね」カインは微笑んだ。「ですが、ここにいる者は皆あなたと同じです。学問の物差しに乗れなかった者たち。測れぬというただそれだけの理由で、世界の隅に追われた者たち」
セイルは改めて房の人々を見た。
確かに皆どこか自分に似た翳りを持っていた。村のはずれで遠巻きにされていたあのころの自分の翳りを。
「ここでは」カインは言った。「あなたの力は欠陥ではない。化け物の証でもない。尊い才です。あなたが視るものを、私たちは信じる。証明を求めない。物差しに乗せようともしない。ただ、在るものとして受け入れる」
その言葉は温かかった。
じんと胸の奥が熱くなるほど温かかった。
だがその温かさの中でセイルはヨナの視線に気づいた。
部屋の隅でヨナがこちらを見ていた。畏敬と――それから押し殺した何か苦いものをその目に宿して。
セイルはヨナのほうへ歩み寄った。
「あんた」セイルは訊いた。「おれが気に入らないんだろう」
ヨナは一瞬ぎくりとした。それから開き直ったように低い声で言った。
「……ああ。気に入らないさ」彼は吐き捨てた。「おれは十のころからこの道にいる。何年も古語を覚えて、呪句を唱えて、代償の覚悟ってやつを叩き込まれてきた。それでも――おれにはろくに視えない。祖型の流れも相も。何年信じて修めても、ほんの薄ぼんやりとしか」
ヨナの拳が握られた。
「なのにあんたは」彼はセイルを睨んだ。「学問に落第したただの辺境者のあんたが。何の修行もしてないあんたが。生まれつき視える。おれが一生かけても届かないものを、ただ持ってる。――そういうのを気に入れってほうが無理だろ」
セイルは言葉を失った。
あの夜のアルヴォを思い出した。
あの男も同じことを言った。量の天才である自分が命がけで届かぬものを、落第者のお前が易々と。――努力では届かない。アルヴォは量で。そしてこのヨナは信仰で。どれだけ積んでも届かない者が、ここにもいた。
自分は行く先々で人をこうして傷つけるのだと、セイルは思った。持っているというただそれだけで。
「悪い」セイルは思わず言った。「おれだって好きで持ってるわけじゃない」
「知ってるよ」ヨナはぷいと顔を背けた。「だからよけいに気に入らないんだ」
帰りぎわカインがセイルを奥の小部屋へ招いた。
そこには小さな祭壇のようなものがあった。古い石が一つ据えられている。村の境界石にどこか似ていた。
「ひとつ見ていただきたい」カインは言った。「私たちがどうやって祖型に触れるのかを」
彼はその石の前に座り、低い声で長い詠唱を始めた。古い言葉が部屋に満ちていく。やがて――石がかすかに光を帯びはじめた。
肌のざわつきが捉えた。
カインの意識が石を通して、奥の「深いところ」へ伸びていく。修練でセイル自身が引きずり込まれかけた、あの底なしの深み。カインはそれを恐れていなかった。むしろ――自ら進んで奥へ身を委ねていた。
セイルはぞくりとした。
あれは危うい。深く視るどころではない。あれは深みに自分を明け渡している。呑まれかけているのではなく――呑まれることを受け入れている。
詠唱を終え、カインが目を開けた。その顔がわずかに青ざめていた。額に汗。けれどその目には、恍惚に近い満ち足りた光があった。
「これが」カインは息を整えながら言った。「神秘です。学問のように外から測るのではない。自らを明け渡し、流れの一部になる。代償を引き受けて。――あなたなら、私たちの誰よりも深くここへ来られる」
セイルは後ずさりたくなる衝動をこらえた。
惹かれていた。確かに半分は。誰よりも深く来られるという言葉に。自分のこの力がここでなら真に解き放たれるというその予感に。
だがもう半分が――はっきりと退いていた。
自らを明け渡す。流れの一部になる。
それは――自分が自分でなくなるということではないのか。
倉庫を出ると夜は深かった。
ヨナが無言で表の大路まで送ってくれた。
「カインさんは」別れぎわヨナがぽつりと言った。「あんたを再来だと思ってる。失われた接続者の生まれ変わりだって。本気で信じてる」
彼はセイルをちらと見た。
「でもおれは思うんだ」ヨナの声は複雑だった。「あんたは誰かの生まれ変わりなんかじゃない。あんたはあんただ。――それを再来だなんだって物語に押し込めるのも、結局あんたを丸ごと見てるわけじゃないのかもな」
そう言うとヨナはさっさと闇の中へ戻っていった。
セイルは一人まばゆい大路へ戻った。
学問は自分を測れずに化け物にした。神秘は自分を敬いながら――再来という物語の器にしようとしていた。
どちらも温度はまるで違う。けれど根のところで、何か同じものが潜んでいる気がした。
誰もただの「セイル・ロウラント」を見てはいない。
肌の奥で、あの黒い炎の流れと深みへ身を委ねたカインの恍惚がまだざわついていた。惹かれている。退いている。半分ずつのまま、セイルはどちらの淵にも足を踏み出せずに立っていた。




