鍵を持つ者
あの夜以来セイルは人を避けるようになった。
あの夜アルヴォを救った。だがそれ以来、聴講の席で誰も隣に座らなくなった。すれ違う学徒は目を逸らす。「竜級を素手で鎮めた落第者」――その噂は院の隅々にまで届いていた。村で「視る石みたいな子」と呼ばれたころと何も変わらなかった。いや、もっと悪くなっていた。
トビーだけは相変わらず話しかけてきた。セレナもオルセンも。だがその三人を除けばセイルの周りには見えない壁ができていた。
その夜セイルは一人で環翠河のほとりを歩いていた。
帰りたくなかった。下宿の狭い部屋に。一人きりの夜に。
「いい夜ですね」
声が川風に乗って届いた。
振り返ると、橋のたもとに一人の男が立っていた。年のころは三十半ばか。質素な旅装めいた外套をまとっている。中央の仕立てのよい服とは違った。どこか遠い土地の匂いがした。
穏やかな目がセイルを見ていた。値踏みする目でも畏れる目でもなかった。ただ、静かにこちらを認めている目だった。
「あなたがセイル・ロウラントさんだ」男は言った。問いではなかった。
セイルは警戒した。「……誰だあんた」
「カインと申します」男は軽く頭を下げた。「カイン・ノクス。――あなたに会いに来ました。ずっと遠くから」
遠くから。いつか街で見かけた灰色の外套の男が頭をよぎった。だが、この男の気配はあれとは違った。あの観察者の執拗な値踏みの気配が、この男にはない。
代わりに――肌のざわつきが奇妙な反応をしていた。
この男の周りに、何か視たことのない流れがあった。学問の魔法の整然とした流れとはまるで違う。もっと古く、もっと重く、もっと――生々しいもの。血の匂いのするような何か。
「あなたは今」カインは静かに言った。「孤独でしょう」
セイルは答えなかった。
「あなたは一人の人間を救った。誰にも視えないものを視て、誰にもできないことをやってのけた」カインの声は穏やかだった。「なのに礼を言われるどころか、化け物のように畏れられている。違いますか」
なぜそれを知っている。
「学問は」カインは川面に目をやった。「あなたを測れない。物差しに乗らないものを、あの人たちは無いことにするか化け物にするかのどちらかしかできない。あなたという人間を丸ごと理解することは、決してできないのです」
その言葉はセイルの胸のいちばん柔らかいところに触れた。
ダルムは言った。測れぬものは無いに等しい。学徒たちは自分を畏れて遠ざかった。学問の都は自分のこの力を、ついに「無いもの」か「化け物」のどちらかにしかできなかった。
この男はそれを言い当てていた。
「あんた何が言いたい」セイルは警戒を解かずに訊いた。
「私たちは」カインは言った。「あなたのような人を待っていました」
私たち。いつかオルセンも同じことを言った。観相派では昔から君のような者を待っていたと。
「私たちは学問が捨てたものを守る者です」カインは続けた。「祖型への接続。学問が解剖し、計量し、定理の檻に閉じ込めようとして――ついにできなかったもの。あなたが生まれつき持っているその力。それを私たちは冒涜とは呼ばない。畏れもしない。ただ敬う。失われてはならない尊いものとして」
セイルは息を呑んだ。
敬う。誰も自分のこの力を敬ったことなどなかった。気味悪がられ、落第と裁かれ、化け物と畏れられた。なのにこの見知らぬ男は、それを「尊い」と言う。
「あなたは」カインの目がわずかに熱を帯びた。「もしかすると――遠い昔に失われた本物の接続者の再来かもしれない。私たちが何代もかけて口伝で守り継いできた者の」
再来。
その言葉にセイルの心がざわついた。
村でハルダが語ったヴァルダの話。祖喰いの英雄。あの古い言い伝えとこの男の言葉がどこかで繋がる気がした。
だが――同時に、肌のざわつきが警告もしていた。この男の周りのあの血の匂いのする流れ。あれは危うい。学問の魔法とは違う、重く代償を要する何か。
「証拠をお見せしましょう」
カインはそう言うと低い声で何かを唱えた。
言葉ではなかった。少なくともセイルの知るどんな言葉でもなかった。古い喉の奥で響くような音の連なり。
その瞬間カインの掌の上に小さな黒い炎が灯った。
セイルは目を見張った。学問の魔法の整然とした火球とはまるで違った。その黒い炎は、生きているようにゆらめき脈打っていた。肌のざわつきが、それをはっきりと捉えていた。あの炎は――カイン自身の何かを削って燃えている。
「これは」カインは静かに言った。「標準の文字には書き写せない。声でしか伝わらない。学問が決して定理にできなかった、古い言葉の力です」彼は炎をふっと消した。掌にうっすらと汗が滲んでいた。「そして――ただでは使えない。私は今、私の生命をわずかに焚べました。神秘の力はいつも代償を求める。それを計量するのではなく――引き受ける。その覚悟ある者にだけ、祖型は応えるのです」
講義で聞いた竜級の話をセイルは思い出した。術者の命を代償として焚べる。学問が追いつけない領域。
あれをこの男は――覚悟して使っていた。
「無理にとは申しません」カインは頭を下げた。「ただ、覚えておいてください。学問の都にあなたの居場所がなくなったとき。誰もあなたを理解せず、あなたを道具にしようとする者ばかりになったとき――私たちはあなたを、人として迎えます」
彼は外套の内から小さなものを取り出した。
黒い鉄の鍵だった。古びてところどころ錆びている。
「私はこれを預かる者――鍵守と呼ばれています」カインはその鍵をしばらくセイルに見せてからまた仕舞った。「いつかあなたが望むなら。この鍵の向こう側をお見せしましょう」
それだけ言ってカインは踵を返した。
「カイン」セイルは思わず呼び止めた。「あんたは――おれの味方なのか」
カインは足を止めた。そして振り返らずに言った。
「さあ。それはあなたが何を選ぶか次第です」
穏やかな声だった。だがその奥に味方でありたいと言ったヴェントとも視ることを教えようと言ったオルセンとも違う何かひやりとしたものが潜んでいた。
カインは夜の闇に溶けるように消えていった。
セイルは一人川辺に残された。
味方かと問えば、味方でありたいと言ったヴェント。さあ、と答えたカイン。誰一人まっすぐな味方ではなかった。
だが――学問の都で化け物と畏れられた今。「あなたを人として迎える」と言ったあの男の言葉が、嫌になるほど温かく響いていた。
肌の奥であの黒い炎の生々しい流れがまだざわついていた。惹かれている。半分確かに惹かれている。
そしてもう半分が――それを恐れていた。
川面に月が映っていた。揺れて、崩れて、本当の形をどこにも結ばないまま。




