意志して視る
扉の向こうでアルヴォの渦がまた一段深く沈んだ。
もう猶予はなかった。
セイルは自分の両手をもう一度見た。震えていた。あの底なしの深みへもう一度近づけば――今度は止めてくれる者はいない。呑まれれば自分も戻れない。
怖かった。心の底から怖かった。
だが――扉の向こうで一人の人間が呑まれていく。誰にも視えないまま。誰にも測れないまま。測れないというただそれだけの理由で、見殺しにされていく。
村でずっと自分がそうされてきたように。
「……先生」セイルは掠れた声で言った。「おれが視る」
オルセンの顔が強張った。「セイル。お前自分が何を言っているか――」
「分かってる」セイルは言った。「全部分かってる。近づけば呑まれる。戻れないかもしれない。――でも視えるのはおれだけだ」
生まれて初めてセイルは自分の意志でその言葉を口にしていた。
視えてしまうではなかった。視るだった。
扉を押し開けた。
渦の中へ足を踏み入れた瞬間、肌のざわつきが悲鳴を上げた。膨大な魔力が全身を押し包む。空気が重く密で息ができない。初めて中央に着いたときの比ではなかった。これは世界の底のさらに底だった。
アルヴォは渦の中心でもう半ば意識を失いかけていた。それでも彼の組んだ術式は止まらない。主を失ってもなお奥へ奥へと呑まれ続けている。
セイルは目を閉じた。
そして――視た。
オルセンに教わったとおりに。まず閉じる。押し寄せる無数の気配に、内側から力いっぱい蓋をした。次に絞る。たった一つ、アルヴォの渦のその中心の流れだけに意識を向けた。
視えた。
アルヴォの膨大な魔力が幾筋もの流れになって、奥の「深いところ」へ吸い込まれていく。その流れのどこにほつれがあるか。どの筋をどう手繰れば彼を引き戻せるか。外側から測るセレナの術式には決して視えなかったものが、セイルの肌にはありありと視えていた。
あの筋だ。
いちばん奥へ深く沈んでいる一本の流れ。あれを引き戻せれば。
セイルはその流れへ自分の感覚を伸ばした。
触れた瞬間、向こうから引き込まれた。
あの修練のときと同じだった。覗き込んだつもりが、向こうがこちらを呑もうとする。底なしの深みがセイルの意識を奥へ奥へと引きずり込む。アルヴォを引き戻すどころか、自分まで一緒に呑まれていく。
ここだとセイルは思った。
ここで放せば助かる。自分だけは戻れる。村にいたころのように垂れ流して目を閉じて何も視なかったことにすれば。
だが――それでは村と同じだ。
崖崩れを肌で察しながら誰にも言えずただ見ていたあのころと。
セイルは歯を食いしばった。呑まれていく感覚の中で、ありったけの意志を振り絞った。深みに引きずられながら、それでもその奥のほつれた流れを掴んだ。掴んで手繰った。村で何百回と火を起こしたときのように。手順どおりに。落ち着いて。一度二度。
奥へ沈んでいたアルヴォの流れがほんの少し戻ってきた。
もう一度。もっと強く。
セイルの意識が薄れていく。目の奥が焼ける。息ができない。それでも放さなかった。手繰り続けた。アルヴォの流れを奥の深みから一筋ずつ引き剥がしていった。
そして――最後の一筋を引き戻したとき。
渦がほどけた。
膨大な魔力が行き場を失い四方へ拡散していく。実習場の空気が急速に薄れていった。アルヴォの体が糸の切れた人形のように床へ崩れ落ちる。
セイルも膝をついた。
全身が汗で濡れていた。心の臓が壊れそうに打っている。目の奥の痛みがまだ引かない。だが――視えた。引き戻せた。救えた。
生まれて初めて自分の異才で誰かを救った。
崩れたアルヴォのかすかな息づかいが聞こえた。生きている。間に合った。
胸の奥が熱くなった。村では呪いでしかなかったこの力が今確かに一人の命を繋ぎとめた。これは――欠陥ではなかった。これは力だった。
だがその熱は長くは続かなかった。
扉のほうを振り返ると学徒たちがこちらを見ていた。
セイルは助けを期待した。誰か手を貸してくれと。アルヴォを医者のもとへ運んでくれと。
だが彼らの目にあったのは――畏れだった。
救われたアルヴォを案じる目ではなかった。落第した辺境者が、誰にも止められなかった竜級の暴走の中へ歩み入り、生きて出てきた。その理解できない異常さを遠巻きに見る目だった。
村と同じ目だった。
「あいつ……魔力も流せないはずじゃ」誰かが囁いた。
「なんであの中に入れたんだ」別の誰かが後ずさった。
誰も近寄ってこなかった。
セイルは悟った。救っても同じなのだ。いや――救ったからこそもっと遠くなった。村では「視る石みたいな子」と気味悪がられた。ここでは「竜級を素手で鎮めた化け物」と畏れられる。力を示せば示すほど、自分は人から遠ざかっていく。
弱いから孤独なのではなかった。
異質だから孤独なのだ。強くなってもそれは変わらない。むしろ――深まっていく。
床のアルヴォが薄く目を開けた。
朦朧とした目がセイルを捉えた。助けられたと気づいたのだろう。だがその整った顔に浮かんだのは感謝ではなかった。
屈辱だった。
「お前が……」アルヴォは掠れた声で呻いた。「お前が止めたのか」
セイルは何も言えなかった。
アルヴォの目に暗いものが宿っていた。自分が命を焚べてまで届こうとした天井。量の天才である自分が命がけで手を伸ばし、それでも呑まれかけたあの一段。それを――魔力も流せぬ落第者が易々と手繰り、鎮めてみせた。
彼が一生かけても届かぬものをこの男は生まれつき持っている。
「……礼は言わん」アルヴォは目を閉じた。声が震えていた。怒りでなくもっと深い何かで。「言ってたまるか。お前なんかに」
その言葉はセイルの胸に深く刺さった。
救った相手にすら届かない。むしろ救ったことで、この男の何かを決定的に傷つけてしまった。セイルにはその傷がこれから何を生むのか、まだ分からなかった。ただ嫌な予感だけが肌の奥でかすかにざわついた。
その夜のことはすぐに院中――いや院の表に出ない場所にまで伝わった。
数日後オルセンがめずらしく硬い顔でセイルに告げた。
「あの夜のことを嗅ぎつけた者がいる」老教授は声を落とした。「外側から測れぬ竜級の流れを直に視て手繰った者がいると。――君がずっと見られていたあの連中だ」
セイルはいつか街で見かけた灰色の外套の男を思い出した。
「向こうはもう確信しただろう」オルセンの目が暗かった。「君が本物だと。何十年も探して見つからなかった生きた観測器がついに現れたと」
救った。確かに救った。
だがその代わりに、セイルは自分の価値を最も知られてはならない相手に証明してしまった。
欠陥は力になった。
そして力は――鎖になろうとしていた。
窓の外で都の灯がまばゆく光っていた。その光が強いほど足元の影は濃い。セイルは自分の両手をじっと見つめた。
もう戻れない。視ないふりをして生きていたころには。
意志して視たその日から世界ははっきりと変わってしまった。




