天井を破る音
異変は夜更けの魔法院から始まった。
その夜セイルは下宿に帰らず、オルセンの研究室に残っていた。修練が長引いたのだ。老教授は奥で舟を漕ぎ、セイルは一人石を相手に「絞る」練習を続けていた。
肌のざわつきがふいにおかしな向き方をした。
いつもの観察の視線とは違った。もっと大きく禍々しい。院のどこか奥のほうで――何かが起きていた。
空気が震えはじめた。
遠い地鳴りのような低い唸り。窓の魔法照明が不規則に明滅した。セイルは立ち上がった。肌が警告していた。これはただ事ではない。
「オルセン!」
老教授も目を覚ましていた。痩せた顔が青ざめている。
「……感じるか」オルセンは掠れた声で言った。「これは――いかん」
二人が駆けつけたのは院の地下にある古い実習場だった。
扉の前にすでに数人の学徒が集まっていた。皆中へ入れず立ち尽くしている。扉の隙間から青白い光が激しく明滅して漏れていた。
「何があった」オルセンが学徒の一人を捕まえて訊いた。
「ゼーゲルが」学徒は震えていた。「アルヴォ・ゼーゲルが一人で術式を……止められないんです。誰も近づけない」
セイルの心臓が跳ねた。
扉の隙間から中を覗いた。
広い実習場の中央にアルヴォが立っていた。その周りに見たこともない規模の魔力が渦を巻いている。いつか実演で見たあの完璧な精霊級障壁。あれが児戯に思えるほどの桁違いの量。彼は今、自分の限界のはるか上のものを組み上げようとしていた。
肌のざわつきでセイルには分かった。
あれは――竜級だ。
量では届かないはずの一番上の段。アルヴォはそれに手をかけていた。
「馬鹿な」オルセンが呻いた。「あの子は何を……竜級は量では組めん。命を焚べねば届かんものを――」
セイルはいつかの廊下を思い出した。掌に完璧な炎を灯しながら唯一持てぬものを知らずにいたあの男。「私の魔法に足りないものなど何もない」と言ったあの硬い声。
知ってしまったのだ。
自分に届かぬ一段があることを。量をどれだけ積んでも決して届かない天井があることを。そして――それに耐えられなかったのだ。
アルヴォの顔が隙間から見えた。汗だくで歯を食いしばり、目を血走らせている。完璧主義の誇り高いあの顔が、今は何かに憑かれた者の顔になっていた。彼は量で天井をこじ開けようとしていた。届かぬものに力ずくで手を伸ばしていた。
そして肌のざわつきがセイルにもっと恐ろしいことを告げていた。
アルヴォの周りの渦が――奥のほうへ呑まれはじめていた。
修練で自分が引きずり込まれかけたあの底なしの深み。あれと同じものだった。アルヴォが組み上げた膨大な魔力が、彼自身ごとゆっくりと奥の「深いところ」へ吸い込まれていく。接続濃度が見る間に濃くなっていく。彼は祖型に呑まれかけていた。
「止めなければ」オルセンが扉に手をかけた。「あのままではあの子は――」
「先生駄目だ!」
セイルはとっさに老教授の腕を掴んだ。肌が絶叫していた。今あの渦に近づけば呑まれる。器の衰えたオルセンではひとたまりもない。
「だが誰かが」オルセンの声が震えた。「誰かが止めねば……!」
そこへセレナが駆けつけてきた。
「セイル! これ何なの!?」彼女は手にした探知の道具を扉の隙間にかざした。短い詠唱。淡い光の網が広がる。だがすぐに彼女は顔を歪めた。
「駄目。私の術式じゃ何も捉えられない」セレナは悔しげに言った。「強い魔力反応があるということしか分からない。中で何が起きてるのか――構造がまるで視えない」
石を二人で視たときと同じだった。
外側から測る学問では、この異常の中身が視えない。アルヴォが今どうなっているのか、どこへ呑まれかけているのか、どうすれば止められるのか――誰にも視えない。
学徒たちはただ立ち尽くしていた。誰も何もできなかった。中央大魔法院の選び抜かれた俊英たちが。教本のすべてを修めた者たちが。目の前で一人の同期が呑まれていくのを、ただ見ていることしかできなかった。
測れぬものは無いに等しい。
ダルムの言葉がセイルの頭に蘇った。
違うとセイルは思った。違う。測れないから誰も彼を救えないんだ。測れないものが今目の前で一人の人間を呑もうとしている。
セイルだけがそれを視ていた。
肌のざわつきが扉の向こうの渦の内側をはっきりと捉えていた。アルヴォの組んだ魔力がどの筋からどこへ向かって呑まれていくのか。流れのどこにほつれがあるのか。どこをどう手繰れば彼を引き戻せるのか。
視えていた。
自分にだけ視えていた。
オルセンがはっとセイルを見た。その目が問うていた。視えるのかと。お前には視えるのかと。
セイルは自分の両手を見た。
修練で引きずり込まれかけた手。あの底なしの深みを覚えている手。あそこへもう一度近づけば――今度は止めてくれる者はいない。呑まれれば自分も戻れない。
扉の向こうでアルヴォの渦がまた一段深く沈んだ。
もう猶予はなかった。




