呑まれかけた手
呑まれかけたその翌日。
セイルは自分の手を何度も見つめていた。
あの淵の感触がまだ手のひらに残っているような気がした。石の奥の底なしの淵。向こうから引きずり込まれたあの力。視ている自分と視られている流れの境が溶けていく、あの感覚。
あと少しだった。あと少しで戻れなくなっていた。セレナの手とリーゼルの言葉がなければ。自分はもうここにいなかった。
いや――いたとしても。それはもうセイル・ロウラントではなかったかもしれない。
その日オルセンの研究室で。
老教授はいつになく重い口を開いた。
「お前が視たものを」オルセンは痩せた手で茶をすすった。「もう一度思い出してみろ。あの淵の底に何がいた」
セイルは思い出そうとして身震いした。
「……何かいました」セイルは低く言った。「流れのいちばん深いところに。沈んだ何か。それがおれを引き寄せてた。自分のほうへ。――同じものにしようとして」
「同じものとは」
「分かりません」セイルは首を振った。「でも――あれはたぶん昔はおれと同じだったんじゃないかって。視る者だった。深く視すぎて。あの淵に堕ちて。視られるものになった。流れの底に沈んだまま」
オルセンの目が細くなった。
「お前は」老教授は静かに言った。「よく視た。そしてよく戻ってきた」
「昔から」オルセンは続けた。「観相を極めようとした者の中にごく稀にいたのだ。深く視すぎて戻れなくなった者が」
「戻れなく」
「ああ」オルセンは頷いた。「視るというのは視られるということでもある。深く視れば視るほど、向こうもこちらを引き込もうとする。たいていの者はそこまで深くは視られん。だから安全だ。だが――お前のような深く視られる者は。あの淵の際まで近づける。そして際まで近づいた者は」
オルセンは言葉を切った。それから低く続けた。
「際の向こうへ落ちることがある。落ちた者は――もう戻らん。視る者ではなくなる。視られるものになる。流れの底に沈んだまま。お前が視たあれのように」
セイルの背筋が凍った。
視られるものになる。あの流れの底に沈んだ何かと同じものに。それが――自分の行き着く先にあるかもしれない淵だった。視る力を深めれば深めるほど。その淵は口を大きく開ける。
ふとセイルの脳裏に遠い記憶がよみがえった。
村で一度だけ聞いた話。古老が囲炉裏端で語った遠い昔の英雄の話。祖型に深く触れて怪物を討った者がいたと。だがその英雄は――怪物と紙一重だったとも。深く触れすぎた者は、自分も怪物になりかけたと。
子どものころはただの怖い昔話だと思っていた。だが今――あの淵を覗いた後では。
その話がまるで違う重さでよみがえった。
深く接続した者は怪物と紙一重。喰らう者がいつ喰らわれる側に転じてもおかしくない。――あれはただの昔話ではなかったのかもしれない。視る者が視られるものに堕ちる。それは自分にも起こりうることだった。
だがセイルはその記憶を深く追わなかった。追えば、また村の石のことが繋がってくる。考えるなと自分に言い聞かせた。今は目の前の恐怖だけで手一杯だった。
「先生」セイルは訊いた。「おれは――いつかあの淵に堕ちるんでしょうか。視る力を使い続ければ」
オルセンはすぐには答えなかった。
「分からん」やがて老教授は正直に言った。「だが一つ言えるのは――独りで深く視るなということだ。お前を淵から引き戻したのは何だった」
「セレナとリーゼル先生の」セイルは言った。「手と言葉です」
「そうだ」オルセンは頷いた。「お前が何者かを言葉にする者が隣にいる限り。お前は淵に堕ちきらん。視られるものになりかけても――『お前はセイル・ロウラントだ』と呼び戻す者がいれば。戻ってこられる。淵の際から」
オルセンは深く悔いのこもった目でセイルを見た。
「わしは」老教授は低く言った。「お前を深追いさせた。お前の力に目が眩んで。すまなかった。――これからは必ず誰かと視ろ。独りで深淵を覗くな。約束できるか」
「……はい」セイルは頷いた。
その夜下宿へ帰る道で。
セイルはまた自分の手を見た。
この手は淵に半分触れた。あと少しで向こう側へ堕ちるところだった。視るという孤独な力。それは力であると同時に――自分を人ならざるものに変えてしまう淵でもあった。
怖いと初めてはっきりと思った。
これまでは視えることを欠陥だと思っていた。気味の悪いよけいなもの。それが力になりかけて、少し誇らしく思いかけていた。だが――今初めてその力の本当の恐ろしさを知った。深く視れば視られるものに堕ちる。自分が自分でなくなる。
持つことの恐怖。アルヴォは持たざることに飢えていた。だが自分は――持つことに怯えていた。視る力を持つがゆえに。その力の淵に引きずり込まれることに。
持つ者と持たざる者。アルヴォと自分。どちらも自分の持つもの持たぬものに苦しんでいた。形は正反対なのに。
その数日後だった。
セイルがまたオルセンの研究室で修練を続けていた夜更け。
肌のざわつきがふいにおかしな向き方をした。観察の視線とは違う。もっと大きく禍々しい何か。院のどこか奥のほうで。
あの軋み。アルヴォの器のひび。それが――ついに決定的な破綻を迎えようとしていた。
持つことに飢えた天才のその飢えが。とうとう器をこじ開けようとしていた。自分が持つことに怯えていた、まさにその夜に。




