視えすぎる夜
その夜の修練でセイルは深く視すぎた。
オルセンの研究室。いつものように石を相手に「絞る」練習をしていた。だがその夜は調子がよすぎた。閉じて絞って向ける。その三つがこれまでになく滑らかにできた。
調子に乗ったのかもしれない。
一つの石の奥へ。流れを追った。これまでよりも深く。流れの行き着く先を視ようとして。さらに奥へ。
そして――視えすぎた。
石の奥の深いところ。流れが吸い込まれていくその先。そこに底なしの淵が口を開けていた。
覗き込んだつもりだった。だが――向こうから引きずり込まれた。
流れがセイルを奥へ奥へと引っ張った。肌のざわつきが悲鳴に変わる。目の奥が焼ける。境が溶けていく。視ている自分と視られている流れの、その境が。
オルセンの言葉が遠くでよみがえった。視るというのは視られるということでもある。深く視れば視るほど、向こうもこちらを引き込もうとする。
引き込まれていた。
石の奥の深い淵へ。そこに呑まれた何かがいた。流れのいちばん深いところに沈んだもの。それがセイルを自分のほうへ引き寄せていた。同じものにしようと。視る者を視られるものへと。
戻れないとセイルは思った。このまま引きずり込まれれば――自分はもう視る者ではなくなる。視られるものになる。あの流れの底に沈んだ何かと同じものに。
体が動かなかった。声も出なかった。意識が底へ底へと沈んでいく。
「セイル!」
誰かが肩を強く揺さぶった。
「戻って! 私の声を聞いて!」
セレナの声だった。その夜書きつけを届けに来ていたのだ。
「セレナ」遠くでリーゼルの声もした。いつのまにか研究室に来ていたらしい。「彼の手を握れ! 物理的な感覚で繋ぎとめろ! ――セイル君! 君が今視ているものは君じゃない! 君はここにいる! この研究室に!」
セレナの手がセイルの手を強く握った。温かい人の手の感触。
リーゼルの声が続いた。
「君の名はセイル・ロウラント! 辺境の灰櫟村の出! 落第したが聴講に残った! セレナと協働している! オルセン先生の弟子だ! ――それが君だ! 流れの底のものじゃない!」
言葉がセイルを繋ぎとめた。
自分が誰なのか。どこにいるのか。何をしてきたのか。リーゼルの言葉が一つ一つセイルを淵から引き戻していった。視られるものになりかけた自分を。人の言葉で。記述する者の言葉で。
ふっと世界が戻ってきた。
気づくとセイルは研究室の床に座り込んで荒い息をついていた。全身が汗で濡れている。セレナがその手をまだ強く握っていた。リーゼルが青ざめた顔で覗き込んでいた。
奥でオルセンが痩せた手で自分の膝を握りしめていた。その顔には深い悔いがあった。
「……無事か」オルセンは掠れた声で言った。「すまん。わしがついていながら。お前の調子がよすぎて――気づくのが遅れた」
「先生のせいじゃ」セイルは喘ぎながら言った。「おれが調子に乗った。深く視すぎた」
セイルは自分の手を見た。震えていた。
あの淵。あれがオルセンの言っていた、近づきすぎてはならぬ場所か。深く視るほど深くなる淵。視る者が視られるものへと堕ちる境。あれに半分足を踏み込みかけた。あと少しで戻れなくなっていた。
ぞくりとした。
視ることは力だ。だがその力には淵がある。深く視るほどその淵は口を大きく開ける。いつか自分も――あの流れの底のものと同じになる日が来るのかもしれない。
「君を繋ぎとめたのは」リーゼルが静かに言った。まだ青ざめた顔で。「君が何者かを言葉にすることだった。君の名。君の来歴。君がしてきたこと。――それが君を淵から引き戻した」
セイルはセレナとリーゼルを見た。
二人とも視えない。祖型の流れも淵も視えない。なのに――その視えない二人が、視えすぎて呑まれかけた自分を救った。記述する者の言葉で。人の手の温もりで。
「一人だったら」セイルは掠れた声で言った。「戻れてなかった」
「ええ」セレナはまだセイルの手を握ったまま言った。その声は震えていた。「だから一人で深く視るのはだめ。約束して。次からは必ず私かリーゼル先生がいるときに」
セイルは頷いた。
視るという孤独な力。それを独りで深く使えば淵に呑まれる。だが――半分しか視えない者が隣にいれば。記述する者が命綱になれば。淵に堕ちずに済む。
完全には分かり合えない。それでもその「半分」が命を繋ぐことがある。
その夜セイルは初めて知った。狭間に立つ孤独を独りで抱えないことの意味を。
だが――その安堵は長くは続かなかった。
数日後の夜更け。セイルがオルセンの研究室で修練を続けていたそのとき。
肌のざわつきがふいにおかしな向き方をした。いつもの観察の視線とは違う。もっと大きく禍々しい。院のどこか奥のほうで――何かが起きていた。
あの軋み。アルヴォの器のひび。それが――ついに決定的な破綻を迎えようとしていた。




