綻びの音
それを見たのは講義棟の人気のない回廊だった。
セイルが通りかかると、角の向こうから苛立った声が聞こえてきた。アルヴォの声だった。
「――何度言えば分かる」アルヴォの声は刺々しかった。「お前たちのその追従がうっとうしいと言っているんだ。すごいさすがと。私が何かするたびに。――黙っていられないのか」
セイルは足を止めた。角の陰からそっと窺った。
アルヴォがメイナとクレスを睨んでいた。取り巻きの二人を。いつもアルヴォの威光にすり寄っていたあの二人を。
「ででもアルヴォ先輩」メイナがおどおどと言った。「おれたちはただ先輩を尊敬して」
「尊敬?」アルヴォが鼻で笑った。冷たく。「お前たちが尊敬しているのは私の何だ。私の成績か。家格か。――お前たちは勝ち馬に乗っているだけだ。私が頂点に立つからその隣にいたいだけだ。違うか」
メイナが言葉に詰まった。図星だったからだ。
セイルには視えた。アルヴォのまとう空気が、以前とはまるで違っていた。完璧な余裕はもうなかった。代わりに、ひりついた苛立ちと孤独が滲んでいた。誰も信じられない。誰も本当には自分を見ていない。皆自分の威光に群がっているだけだ。――そんな猜疑がアルヴォを覆っていた。
「私はな」アルヴォは低く続けた。「頂点に立てなくなったらお前たちが真っ先に離れることを知っている。だから――うっとうしいんだ。その薄っぺらい追従が」
クレスがすっと目を細めた。
打算的なその目が何かを測っていた。セイルには視えた。クレスの中で計算が働いていた。風向きを読むあの嗅覚。アルヴォのこの苛立ち。焦り。余裕のなさ。――それが何を意味するか。クレスは敏感に感じ取っていた。
「……先輩」クレスが低く言った。慎重に。「最近無理をなさってませんか。竜級に届こうとして。――噂で聞きました。器の限界を超える練習をしてると。あんまり根を詰めると」
「黙れ」
アルヴォの声が回廊に響いた。
「お前に何が分かる」アルヴォはクレスを睨んだ。「私が届くか届かないか。お前のような凡庸な者に分かるものか。――私は必ずあの天井を破る。見ていろ。そのときお前たちは私の本当のすごさを知る」
クレスは何も言わなかった。ただ一歩後ろへ下がった。
その一歩をセイルは視た。
離れ始めていた。クレスが。風向きを読んで。沈みかけた船から降りる準備を。打算的な者ほど早い。アルヴォの焦りと無理を、彼は破綻の前触れと嗅ぎ取っていた。
アルヴォが足音を荒げて去っていった。
あとにメイナとクレスが残された。
「なあ」メイナが不安げにクレスに囁いた。「アルヴォ先輩最近変だよな。前はあんなに刺々しくなかった。なんか――怖いよ」
「ああ」クレスは冷たく言った。「あれは危ない。竜級に届かないのを認められずに無理をしてる。あのままじゃいつか何かやらかすぞ」
「やらかすって」
「知らないのか」クレスは声をひそめた。「器の限界を超えて魔力を注ぐとどうなるか。――暴走だ。下手すりゃ本人も周りも巻き込んでただじゃ済まない。おれは関わりたくない。今のうちに距離を置く」
クレスはそれだけ言うと、メイナを置いて立ち去った。メイナはおろおろとその場に取り残された。崇拝していた先輩は自分を突き放し。一緒にすり寄っていた仲間はさっさと逃げ出す。
セイルは回廊の陰からその一部始終を視ていた。
アルヴォの転落はもう誰にも止められないと思った。
以前のアルヴォにはまだ人がいた。取り巻きがいた。崇拝する者が。利用する関係でもそれは繋がりだった。だが今アルヴォは、その繋がりごと自分から断ち切ろうとしていた。誰も信じられず。誰も本当には自分を見ていないと猜疑に駆られて。
そして取り巻きのほうも――崇拝は恐れに変わり。打算は離反に傾き始めていた。
アルヴォは孤立していく。届かぬ天井をこじ開けようと無理を重ねながら。たった一人で。誰の声も届かないところへ。
止められないとセイルは思った。オルセンもそう言った。飢えた者は止まらない。だがこうして人間関係の綻びとして目の当たりにすると――その止まらなさがいっそう生々しく視えた。
器の軋み。関係の綻び。二つの綻びが同時に進んでいた。そしてその二つがいつか同じ一点で決定的な破綻を迎える。
その夜セイルはなかなか寝つけなかった。
持たざる自分が持てる者の崩壊を視ている。器の限界を超える危うさを。人を突き放していく孤立を。すべて視えている。なのに――何もできない。
止めようとして声をかければアルヴォは激昂するだけだった。視えるだけの落第者がと。自分の言葉はアルヴォには届かない。届くどころかその飢えを刺激するだけだった。
視えるのに止められない。
それはあの討伐演習でピルを救えなかったときと同じ無力だった。視えても手が届かない。だが今度の相手は、魔物ではなく人だった。一人の天才がゆっくりと淵へ堕ちていく。それを視ながらただ見ているしかない。
破綻の音はもうすぐそこまで来ていた。そして自分はそれを聞くことしかできなかった。




