綻びの前
アルヴォ・ゼーゲルが変わりはじめていた。
それに最初に気づいたのはやはりセイルだった。
公開演習でイーディス・ヴァレルの完璧を見上げたあの日から、アルヴォのまとう空気が変わった。以前は完璧な余裕があった。誰よりも高く積み上げた者の静かな誇り。だが今は――その完璧さの裏に、ひりついた焦りが滲んでいた。
講義のあと学徒たちに囲まれても、アルヴォは上の空だった。問いに淀みなく答えはする。だがその目はいつもどこか遠くを――おそらくイーディスの立つあの頂を見ていた。
ある日セイルは実習場の隅でアルヴォが一人術式を組んでいるのを見かけた。
精霊級の術式。だがそれはいつものアルヴォの術式とは違った。
無理をしていた。
セイルの肌がそれを視た。アルヴォは自分の器の限界を超えて、魔力を注ぎ込もうとしていた。完璧な制御のその先へ。もっと上へ。精霊級のさらに高みへ。竜級へと続くあの階段へ。
だがそれは危うかった。アルヴォの器は満ちている。だがその器には限界がある。限界を超えて注げば――器そのものが軋む。ひびが入る。
「やめたほうがいい」
セイルはつい声をかけてしまった。
アルヴォの術式が揺らいだ。ぎろりとこちらを睨む。
「……またお前か」アルヴォの声は低く刺々しかった。「落第者が。何の用だ」
「あんた無理してる」セイルは言った。「器の限界を超えようとしてる。そんなことしたら器が壊れる。視えるんだ。あんたの魔力が軋んでるのが」
アルヴォの顔がゆがんだ。
「視える視えると」アルヴォは吐き捨てた。「お前はいつもそれだ。視えるだけの落第者が。魔力ひとつ流せぬ者が。私の何を分かる」
「分からない」セイルは言った。「けど危ないのは視える」
「黙れ!」
アルヴォの声が実習場に響いた。
その目にはこれまで見たことのない激情があった。完璧な仮面が剥がれかけていた。その下にあったのは――追い詰められた飢えだった。
「お前に分かるか」アルヴォは絞り出すように言った。「私は誰よりも高く積んできた。下級も上級も精霊級も完璧に修めた。なのに――あの最後の一段にだけ手が届かない。竜級。あそこにだけはどれだけ積んでも入れない。イーディス・ヴァレルにも入れない。私にも入れない。――なぜだ。なぜ私の完璧はあの一段の前で止まる」
セイルは答えられなかった。
答えは知っていた。オルセンが言った。竜級は量では届かない。窓を命がけで開け放った者だけが触れる領域。窓のない者にはその入口すら無い。アルヴォにはその窓がない。生まれつき。
だがそれを言えなかった。言えば、アルヴォを決定的に打ちのめすことになる。
「お前には」アルヴォはセイルを睨んだ。「その窓があるんだろう。視えるということは。私が生涯手に入れられないあの窓が。――魔力もない落第者のお前に」
セイルは息を呑んだ。
アルヴォは気づいていた。自分に欠けているものが何なのかを。そしてそれを落第者のセイルが持っていることを。量の天才が持たざる者に唯一嫉妬するもの。それが――この視る窓だった。
「ずるい」アルヴォは低く呟いた。子どものような声だった。「ずるいじゃないか。私はこんなに積んできたのに。お前は何もないのに。生まれつきそれを持っている。――なぜお前なんだ」
その問いにセイルは答えられなかった。
なぜ自分なのか。それは――セイル自身がずっと抱えてきた問いでもあった。なぜ自分にこの力があるのか。誰も知らない。自分でも分からない。
持っているほうも持っていないほうも。同じ問いの前で立ち尽くしていた。
その夜セイルはオルセンに昼間のことを話した。
「アルヴォが」セイルは言った。「焦ってる。器の限界を超えようとしてる。竜級に無理に届こうとして。あのままじゃ器が壊れる」
オルセンの顔が険しくなった。
「来たか」老教授は低く言った。「あの子が自分の天井に気づいた。そして――認められずに無理を始めた。いちばん危ない兆しだ」
「止められないのか」
「止まらんよ」オルセンは首を振った。「飢えた者は止まらん。竜級は量では届かんと誰が言っても、あの子は信じない。信じたくないんだ。だから――自分の器を壊してでもこじ開けようとする。そしていつか」
オルセンは言葉を切った。
「破綻する」
その一言が研究室に冷たく落ちた。
セイルは、視てしまったあの軋みを思い出した。アルヴォの完璧な器に入りかけたひび。あれがいつか決定的な破綻になる。
視えていた。だが止められない。持たざる自分が、持てる者の崩壊の予兆を視る。だがその手は何も届かない。
窓の外で、都の灯がいくつも瞬いていた。その一つの下で今もアルヴォは、届かぬ天井をこじ開けようと無理を重ねているのだろうか。
破綻の音は――もうすぐそこまで来ていた。




