測られる側
その視線に最初に気づいたのは肌のほうだった。
オルセンの研究室からの帰り道。聴講の合間。下宿への夜道。ふとした折に、セイルは肌のざわつきが奇妙な向き方をするのを感じるようになった。
誰かが自分を見ている。
最初は気のせいだと思った。村を出てからずっと、見られることには慣れていなかった。だがこれは、村で遠巻きにされたときのあの不躾な視線とは違った。もっと静かで、執拗で――値踏みするような。まるで自分という一個の現象を、外側から丹念に測っているような。
オルセンに「視る」ことを教わりはじめてから、セイルの感覚は明らかに鋭くなっていた。蛇口をひねれるようになった。閉じて、絞って、向ける。その同じ感覚で今、セイルは自分に向けられた「観察」の気配をはっきりと捉えていた。
皮肉だとセイルは思った。測ることを覚えたとたん、自分が測られていることに気づいてしまった。
振り返ってもいつも誰もいなかった。
石畳の大路には相変わらず人が川のように流れている。誰もセイルを見ていない。少なくとも目では。だが肌が告げていた。この雑踏のどこかに自分だけを見ている目がある。
一度だけそれらしい姿を見た。
夕暮れの広場で灰色の外套の男が柱の影に立っていた。顔はよく見えなかった。ただその立ち方が――誰かを待つでも急ぐでもなくただ観察するためだけにそこにいるという立ち方だった。
セイルが目を向けたその瞬間。男はすっと人混みに紛れた。追う気も起きなかった。追えば向こうの思う壺だという気がなぜかした。
「ヴェント」
次にヴェントと会ったときセイルは思い切って訊いた。環翠河の話をあれきり二人は持ち出していなかった。
「誰かに見られてる気がする」セイルは言った。「ずっと。値踏みするみたいに。――あんた何か知ってるのか」
ヴェントの顔から表情が消えた。
しばらく彼は答えなかった。それから周りに人がいないのを確かめるように視線を一度巡らせた。
「……早かったな」ヴェントは低い声で言った。「もう気づかれたか」
「気づかれたって」
「いや。気づいたのは君のほうだ」ヴェントは苦い顔をした。「向こうは君に気づかれるとは思っていなかっただろう。普通の者は見られていても分からない。だが君は――視ることを覚えはじめている。だから見られていることも分かってしまう」
修練のときオルセンに言われたことと同じだった。視るというのは視られるということでもある。
「あんた誰なのか知ってるんだな」
ヴェントは長く息を吐いた。
「名は言えない」彼は言った。「正確には――言ってはいけないことになっている。あれは記録に残らない人たちだ。名を口にした者まで記録から消える。そういう約束で動いている連中だ」
セイルはぞっとした。
名を口にした者まで消える。そんな組織がこの光に満ちた都に在るのか。
「あの人たちが」ヴェントは声をさらに落とした。「ずっと追い求めてきたものがある。学問が最後まで掌握できなかった領域――竜級だ。命を代償に要求するあの一番上の段。なぜ命を要るのか。その代償がどこへ支払われているのか。それを突き止めようとしている」
「それとおれが何の関係が」
「君がその鍵になりうるからだ」
ヴェントの目がまっすぐにセイルを見た。
「あの人たちは長年術式を組んでは観測を繰り返してきた。だが外側から測るだけでは竜級の代償が『どこへ』向かうのかついに視えなかった。誰もその流れを直に視ることができなかったからだ。――だが君は視える」
セイルは息を呑んだ。
石の奥の流れが深いところへ吸い込まれていくのを自分は視た。オルセンの研究室で引きずり込まれかけたあの底なしの「深いところ」。
あれを視られる人間が。
「君は」ヴェントは言葉を選ぶように言った。「あの人たちにとって何十年も探してついに見つからなかった――生きた観測器なんだ」
観測器。
道具ではなかった。器械だった。人ではなく機械として自分は欲しがられている。
「観測のたびに」ヴェントは最後にそれだけは言っておくというように声を絞った。「あの人たちは一人失うと聞く。竜級を視るために術式を浴びる者が要る。そしてその者は――戻ってこない」
戻ってこない。
セイルは修練で深みへ引きずり込まれかけたあの感覚をもう一度思い出した。あれがもし止められなかったら。オルセンが肩を掴んでくれなかったら。自分はあの底なしの深みへ呑まれていただろう。
あの人たちはそれを――わざとやらせるのだ。誰かに。観測のために。
「逃げたほうがいいのか」セイルはかすれた声で訊いた。
「逃げ場はない」ヴェントは静かに首を振った。「あの人たちは国家そのものだ。辺境へ帰っても追ってくる。――ただ」
彼は一度言葉を切った。
「今はまだ見ているだけだ。君が本当に『使える』かどうかを見極めている段階だ。価値があると確信すれば向こうは動く。それまでは猶予がある」
猶予。
またその言葉だった。落第の猶予。半年の足場。そして今度は実験体にされるまでの猶予。
セイルは自分がいくつもの崖の縁に同時に立たされている気がした。
「だからセイル」ヴェントは言った。「強くなれ。君を欲しがる連中がおいそれと手を出せないくらいに。――君を守れるのは最後には君の力だけだ」
その言葉に味方の響きはあった。
だが同時にセイルは思い出していた。いつか私が君を裏切るような顔をする日が来たらと言ったこの人の言葉を。
ヴェントは庁に近い。本人がそう言っていた。
今警告してくれているこの人もいつか向こう側に立つのかもしれない。
セイルは何も言わずにただうなずいた。光に満ちた都のまばゆい大路を二人は黙って歩いた。その足元のずっと深いところで何か冷たいものがこちらをじっと見ている気がした。




