同郷の杯
「飲めるか」
ある晩、シグがセイルを誘った。学院街の裏通りの安酒場だった。
辺境者や下働きの者が肩を寄せ合う薄暗い店。中央の家名持ちの学徒は、決して足を踏み入れない場所だった。シグは慣れた様子で、隅の卓に腰を下ろした。
「中央の洒落た酒場は性に合わん」シグは濁り酒を頼みながら言った。「こういう辺境者の溜まる店のほうが、息ができる。――お前も覚えとけ。中央で生き抜くにはな、息のできる場所を一つ持っておくことだ」
杯を重ねるうちに。
シグの口が、少しずつ軽くなっていった。日に焼けた顔が、酒で赤らんでいく。
「おれな」シグはぽつりと言った。「去年、上級研究室への推薦をもらえるはずだった」
「推薦?」
「ああ。成績は上位だった。教授もおれを推すと言ってくれてた。辺境者でもここまで来た、ってな」シグは杯を見つめた。「だが――最後にひっくり返った。同じ研究室を、ヴァレル家の縁者が望んだ。それだけでおれの推薦は消えた。成績は、おれのほうが上だったのに」
シグは濁り酒をあおった。
「教授はすまなそうに言ったよ。『君の実力は認めている。だが今回は、いろいろと事情があってな』。事情。――家名だ。血筋だ。それが、事情の正体だ。おれがどれだけ机にかじりついても。どれだけ死ぬ気でやっても。最後の最後で、生まれがものを言う」
セイルは何も言えなかった。
シグの顔を視た。酒で赤らんだその奥に。深い傷があった。何年もかけて積み上げたものが、生まれという一語で覆された。その理不尽をシグは、飲み込んで飲み込んで、それでも消化しきれずに抱えていた。
「分かるか、セイル」シグは据わった目で言った。「努力が報われないんじゃない。努力する前から、結果が決まってるんだ。おれたちのような家名なしには。最初から天井が引いてある。どんなに跳ねても、その天井には頭がつかえる」
天井。
その言葉に、セイルはふとアルヴォを思い出した。あの天才も天井を見上げていた。竜級という、量では届かぬ天井を。だがシグの天井は違った。アルヴォの天井は、才の果てにあった。シグの天井は――生まれたその日から、頭の上に引かれていた。
持てる者の天井と、持たざる者の天井。どちらも越えられない。だがその不公平さは、まるで違った。
「お前は」シグがふいにセイルをまっすぐ見た。「逃げろ」
「逃げる?」
「中央からだ」シグは低く言った。酔いの下から、本音が滲み出ていた。「お前には妙な才があるって聞いた。視えるとかいう。――やめとけ。そういう才は、いちばん危ない。家名なしで妙な才があると、中央はお前を食い物にする。利用するだけ利用して、用が済めば捨てる。いや――捨てるなら、まだましだ。妙な才は捨てずに、飼い殺しにされる。一生、誰かの道具として」
セイルの背筋が冷えた。
飼い殺し。その言葉が、ドレンのあの言葉と重なった。我々は君を欲しがる。君のような視える者を。
「おれは」シグは続けた。「ただの家名なしだ。だから上に行けないだけで済んでる。どっちつかずで立ち尽くすだけで。だがお前は違う。お前には、連中が欲しがるものがある。――そういう奴は、立ち尽くすことすら許されん。引きずり込まれる。学問にか、神秘にか知らんが。どっちかに」
セイルはしばらく黙っていた。
それから訊いた。ずっと気になっていたことを。
「シグさんは」セイルは言った。「それでも村に帰らないんですか。中央でこんなにすり減るくらいなら。村に帰れば――少なくとも、生まれで裁かれることはない」
シグの手が、杯の上で止まった。
長い沈黙があった。
「帰れんよ」やがてシグは低く言った。「もう帰れん。――村の連中は、おれを誇りに思ってる。村から中央へ出た出世頭だと。みんなが銭を出し合って、送り出してくれた。なのに今さら、上に行けませんでしたどっちつかずですなんて――言えるか」
セイルはその顔を視た。
諦観の奥に。ほどけきらない何かがあった。望郷だった。村の霜の匂い。送り出してくれた人々の顔。シグはそれを恋しがっていた。痛いほど。だが帰れない。誇りを背負わされて。帰れば、その誇りを裏切ることになる。だから帰れない。すり減りながら、中央にしがみつくしか。
「帰りたいんですね」セイルはつい言ってしまった。「本当は」
シグの目が揺れた。それからふっと力なく笑った。
「視えるってのは」シグはかすれた声で言った。「厄介だな。人のいちばん見られたくないところまで、視ちまう」
その夜、酒場を出ると冷たい風が吹いていた。
シグは足元をふらつかせながら、夜道を帰っていった。その背中が、やけに小さく見えた。村にも帰れず。中央でも上に行けず。どっちつかずの場所で、誇りという重荷を背負ってただ立ち続ける男の背中。
セイルはその背を見送りながら、思った。
あれが十年後の自分かもしれない。いや――シグの言うとおりなら、自分はもっと悪い。シグは立ち尽くすだけで済んでいる。だが自分には、連中が欲しがる妙な才がある。立ち尽くすことすら許されないかもしれない。引きずり込まれる。どこかへ。
それでも、とセイルは思った。シグは帰れないのに、望郷を抱えていた。自分はどうだろう。いつか村にも帰れなくなる日が、来るのだろうか。あの霜の匂いの村に。ティナのいる、ハルダのいるあの村に。
その問いは答えのないまま、冷たい夜風の中に消えていった。
ただシグという先を歩く影が、一ついる。それだけがこの夜の、ささやかな慰めだった。同じはみ出し者の。




