記録から消えた沢
あの女のことが忘れられず、セイルは数日後、あの路地をもう一度訪ねた。
助けたはずの女。だが女は、自分が助けられたことすら知らない。せめて無事を確かめたかった。あの古い家の前に立った。
だが――そこに家はなかった。
いや、家はあった。だがそれは空き家だった。窓は板で塞がれ、戸口には埃が積もっている。何年も誰も住んでいないような佇まい。あの日女が叫んでいた家とは、まるで別物だった。
「ここに」セイルは近所の者に訊いた。「女の人が住んでた家ありませんでしたか。数日前騒ぎが」
「騒ぎ?」老人は首を傾げた。「いや。ここはずっと空き家だよ。もう何年も。住んでる者なんざいやしない」
セイルは立ち尽くした。
空き家。何年も。住む者はいない。
だが――自分は確かに見た。あの日ここで、女が叫んでいた。穴に吸い込まれかけていた。自分が助けた。
なのに近所の者は、誰も覚えていない。それどころか、ここはずっと空き家だったと言う。記憶を消されただけではなかった。事実そのものが、塗り替えられていた。女がいたという痕跡ごと。
ドレンの一団は、ただ野次馬の記憶をぼかしただけではなかった。家を空き家に仕立て直し、近所の者の記憶に別の「事実」を植えつけ、女をどこかへ運び去った。あらゆる繋がりを断って。あの出来事はなかったことにされた。完全に。手際よく。まるで――何度もやってきたかのように。
セイルは肌でその家を視た。
すると薄く残っていた。記憶を消す術の痕跡が。家中に何度も、何重にも塗り重ねられた忘却の術式。それはつい数日前に施されたものだった。だが近所の者には、何年も前から空き家だったという嘘の記憶が上書きされている。
嘘を塗り重ねる。真実の上に。何層にも。
セイルはぞっとした。これは一度きりのことではない。この都のあちこちで、こうして何かが起き、誰かが害され、そして――なかったことにされている。記録から消され。記憶から消され。事実から消されて。
学問の輝かしい都の、その裏で。説明のつかぬものは片端から、闇へ葬られている。系統立てて。制度として。
「また君か」
声がした。振り返ると灰色の外套の男――ドレン・カスクが立っていた。一人で。いつのまにか背後に。
「この家を嗅ぎ回っているという報告が上がってな」ドレンは無機質に言った。「来てみれば、やはり君か。ロウラント」
「あの女の人は」セイルは訊いた。「どこへやった。生きてるのか」
「生きている」ドレンは淡々と答えた。「療養所に移した。正気は戻る。だが自分の身に何が起きたかは、二度と思い出さん。そのほうが本人のためだ。未学問領域に触れた記憶など抱えて生きても、苦しいだけだからな」
「なかったことにするのか」セイルは言った。「全部。あの人が苦しんだことも。おれが助けたことも」
「処理する」ドレンは言葉を訂正した。事務的に。「なかったことにするのではない。あるべき形に整える。――ロウラント。考えてみろ。未学問領域の漏出が市井で起きたと公になれば、どうなる。人々は怯える。学問は世界をすべて掌握したと信じている。その信頼が崩れる。秩序が揺らぐ」
「我々は」ドレンは続けた。淡々と、しかし確信を持って。「秩序を守っている。学問の都が人々に与える安心を。説明のつかぬものは無い。すべては定理化されている。――その建前が、この国を支えている。我々は、その建前の綻びを繕う者だ。誰かがやらねばならん」
セイルはその言葉に言い返せなかった。
ドレンは悪人の顔をしていなかった。むしろ職務に忠実な官吏の顔だった。彼の言うことには、半分理があった。説明のつかぬものが市井に溢れれば、人は怯える。秩序は揺らぐ。誰かがそれを繕わねばならない。
だが――その繕いの下で。あの女の苦しみは消された。セイルの救いも。真実は嘘で上書きされ、人は安心という嘘の中で生きていく。
「お前たちは」セイルは絞り出すように言った。「正しいことをしてるつもりで。本当のことをぜんぶ消してる」
「そうだ」ドレンは否定しなかった。「本当のことがいつも人を幸せにするとは、限らん。――君もいずれ分かる。君のような視える者は、いちばん消したい『本当のこと』を視てしまう。だからこそ、我々は君を欲しがるのだよ」
その一言が、冷たくセイルの背筋を撫でた。
ドレンはそれだけ言うと踵を返した。
「報告は上げてある」去り際にドレンは言った。「君のことは、上の者が関心を持っている。――じきにもっとはっきりした形で、君のもとへ来るだろう。覚悟しておくことだ」
灰色の外套が路地の角に消えた。
セイルは空き家の前に一人残された。
あの女の苦しみも。自分の救いも。すべてなかったことにされた。そしてそれは、一度きりではない。この都では、説明のつかぬものは片端から消されていく。系統立てて。制度として。理のある正しさの顔をして。
いつか、とセイルは思った。いつか自分が何か大きなことを視て成し遂げたとしても。それも、こうして消されるのだろうか。記録に残らず。誰にも知られず。ただ報告書の、一行の中に。
その予感は、虚しさよりももっと底冷えのする何かだった。
役に立っても。救っても。視る者の働きは闇に葬られる。それがこの都の流儀だった。
路地の奥で、また魔晶石が何も知らぬげに灯っていた。




