未学問領域の穴
その騒ぎは学院街の外れの路地で起きた。
オルセンの研究室からの帰り、セイルが通りかかったときだった。人だかりができていた。一軒の古い家の前。中から、悲鳴のような声が漏れていた。
「どうしたんだ」セイルは近くの者に訊いた。
「分からん」野次馬が首を振った。「あの家の女房がおかしくなったらしい。何もない壁に向かって叫んでる。『穴がある』『吸い込まれる』ってな。気でも、触れたか」
セイルの肌がざわついた。
その家の奥。何もないはずの空間に――小さな淀みがあった。
セイルは人をかき分けて家の中を覗いた。
奥の壁の前で、一人の女が座り込んで震えていた。何もない壁を指さして、何かを叫んでいる。だが――セイルには視えた。その壁の前の空間に、確かに小さな「穴」のようなものが開いているのが。
空間が薄くよじれていた。そのよじれの奥へ、何かがゆっくりと吸い込まれていく。魔力の淀み。土地のほつれ。学問では説明のつかない何か。神秘の者なら、触れてはならぬと言うだろう。学者なら、未だ及ばぬ領域と呼ぶだろう。
その「穴」が、女の正気を少しずつ吸っていた。
閉じて、絞って、向ける。オルセンに教わったとおりに。セイルはその穴の構造を視た。
視えた。それはごく小さなものだった。土地のほんの綻び。だが放っておけば、女の心をすっかり吸い尽くしてしまう。
「あんた」セイルは震える女に声をかけた。「壁を見るな。後ろを向くんだ。穴の反対側を。そっちには何もない。安全だ」
女はセイルの声にわずかに反応した。のろのろと壁から顔を背ける。
「そうだ。そのまま」セイルは言った。「穴はあんたが見るから、近づいてくる。見なければ、繋がりが切れる。――目を閉じて。おれの声だけ聞いて」
女が目を閉じた。
セイルには視えていた。女が壁から意識を逸らすにつれ、その「穴」と女を繋いでいた細い糸のようなものが、薄れていくのが。穴は、相手が視返さなければ力を保てない。見られることで、初めて引きずり込める。
女と穴の繋がりが切れた。
女がふっと力を抜いて、その場に崩れた。気を失ったが、息はあった。正気を吸い尽くされる前に、間に合った。
野次馬たちがざわめいた。あの落第者が女房を助けたと。何をしたのかは、誰も分からなかった。ただセイルが何か言ったら、女が落ち着いた。それだけが見えたことだった。
だがその「助けた」は長くは残らなかった。
ほどなく灰色の外套の男たちが現れた。
先頭の男は、無機質な官僚的な顔をしていた。ドレン・カスクと、後で誰かが囁いた。表に出ない役所の捜査官。
男たちはてきぱきと現場を押さえた。気を失った女を運び出し、家を封鎖する。野次馬を追い払う。そして――何か術式のようなものを使った。
セイルの肌がそれを視た。
記憶を薄める術。野次馬たちの今しがた見たものの記憶を、ぼかしていく。女がおかしくなったことも。誰かが助けたことも。すべて靄の中へ。
「これは」ドレンが淡々と宣言した。事務的な声で。「未学問領域の漏出だ。我々が処理する。――諸君が見たものは、何もない。気の触れた女が一人。それだけだ。家へ帰りなさい」
野次馬たちはぼんやりと頷いて散っていった。今自分が何を見たのかも、もう曖昧になりながら。
ドレンの目がふとセイルを捉えた。
その目にわずかな関心が宿った。
「君は」ドレンは無機質に言った。「術が効いていないな。記憶がぼけていない。――なぜだ」
セイルは身構えた。
「君が」ドレンは続けた。「あの女を助けたのか。穴との繋がりを断った。――どうやってそれを視た。学問の術でも神秘の業でもない、その目で」
セイルは答えなかった。
ドレンはしばらくセイルを見ていた。それから手元の書きつけに、何か記した。ナディがいつかしたように。
「ロウラント君だな」ドレンは言った。「聞いている。――覚えておこう。君のことは、報告に上げておく」
報告。その一語が冷たく響いた。
ドレンとその一団は現場をきれいに片付けて、去っていった。後には何も残らなかった。女がおかしくなったことも。セイルが助けたことも。すべて、なかったことにされた。
一人路地に残されたセイルは自分の手を見た。
助けた。確かに。あの女の正気を。誰かを救った。生まれて初めて、自分の「視る」力で。
なのに――それはどこにも残らなかった。
女は、自分が助けられたことを知らない。野次馬は記憶を消された。役所はなかったことにした。自分が何をしたかを知っているのは、自分だけ。あとは報告書の中の、一行の「観測対象」として記録されるだけ。
役に立った。だが誰もそれを知らない。
奇妙な虚しさが胸に広がった。視えることで人を救えた。だがその救いは、靄の中へ消えていく。功績は闇に葬られ、自分だけがその重さを抱えて立っている。
これが視る者の役回りなのだろうかと、セイルは思った。視て、救い、そして――誰にも知られない。
路地の奥で、魔晶石の灯りが何も知らぬげに静かに灯っていた。




