視るための眼
「君は垂れ流しだ」
オルセンは開口一番そう言った。
研究室の隅で、セイルは古い魔晶石を前に座らされていた。セレナとの「観察」とは別に、オルセンはセイルだけを呼ぶ日を設けた。今日がその最初だった。
「垂れ流し」セイルは繰り返した。
「そうだ。君は視ようとしていない。視えてしまっている。蛇口が壊れて開きっぱなしなのと同じだ」老教授は茶をすすった。「村でさぞ辛かったろう」
図星だった。
村の境界石の前。中央に着いた峠の上。いつだって感覚は、勝手に流れ込んできた。閉じようとしても閉じられず、ただ押し流されるしかなかった。目を閉じても止まらない。それがずっと苦しかった。
「だがそれは、才の使い方を誰も教えなかったからだ」オルセンは言った。「観相とは、垂れ流すことではない。視たいものを視たいだけ視る。視たくないものを閉じる。――蛇口を自分の手でひねれるようになることだ」
「まず閉じることからだ」
オルセンはセイルの前に三つの石を並べた。
「目を閉じなさい。そして肌のざわつきを感じてごらん。三つの石がそれぞれどう違うか」
セイルは目を閉じた。すぐにいつもの感覚が流れ込んできた。三つの石。それぞれわずかに違う気配。右のがいちばん濃い。
「右のが濃い」
「よろしい。では――その三つをぜんぶ閉じてみなさい」
「閉じる……?」
「蓋をするんだ。瞼を下ろすように。感じているものに内側から蓋をする」
セイルは戸惑った。そんなことできるのか。感覚はいつだって、向こうから来るものだった。自分から止めるなど、考えたこともなかった。
だが言われたとおり試した。瞼を下ろすように。流れ込んでくるものに、内側から蓋をするように。
最初は何も変わらなかった。気配は相変わらず流れ込んでくる。
諦めかけたときふと――右の石の濃い気配が、ほんの少し遠のいた。
「……薄くなった」セイルは驚いて言った。「右の石が遠くなった」
「それだ」オルセンの声がわずかに弾んだ。「それが蓋だ。垂れ流しの君が生まれて初めて、自分で蛇口に手をかけた。――上等だ」
セイルは目を閉じたまま、しばらく動けなかった。
止められた。生まれて初めて、自分の意志であの感覚を少しだけ止められた。村にいたころの自分に、教えてやりたかった。おまえは壊れているんじゃない。ただ使い方を知らなかっただけなんだと。
「閉じられるなら」オルセンは次に言った。「絞ることもできる」
今度は五つの石が並んだ。
「五つのうち四つに蓋をして一つだけ視なさい。残した一つをできるだけ深く」
セイルはやってみた。四つに蓋をする。難しかった。一つ蓋をすると、別の一つが漏れる。汗が滲んだ。それでも少しずつ、四つの気配を内側へ押し込めていった。
そして最後に残った一つの石。
それだけに意識を向けた。
その瞬間――石の奥がぐっと近づいた。
今までぼんやりと「濃い」「薄い」としか感じられなかったものの内側が、視えた。石の中で、細い流れが幾筋も絡み合っている。それがゆっくりと奥のほうへ――どこか深いところへ向かって、吸い込まれるように流れていく。
接続濃度スペクトラム。オルセンがいつか言っていた言葉が、頭に浮かんだ。この石は奥の「何か」に呑まれかけている。その「呑まれ」の度合いを、自分は今はっきりと視ている。
「視えてるか」オルセンの声が遠くで聞こえた。
「視えてる」セイルは夢中で答えた。「奥に吸い込まれてる。流れが深いところへ――」
「もっと深く追えるか」
セイルはその流れを追った。
奥へ。さらに奥へ。流れの行き着く先を視ようとして――
ぐらりと世界が傾いた。
石の奥の「深いところ」が、急に底なしに感じられた。覗き込んでいたつもりが――向こうから引きずり込まれていた。流れが自分を奥へ奥へと引っ張る。肌のざわつきが悲鳴に変わる。目の奥が焼けるように痛い。息ができない。
「セイル!」
肩を強く掴まれた。
「戻れ! 蓋をしろ! 全部に蓋を!」
オルセンの声が鋭く飛んだ。セイルは必死で瞼を下ろした。流れ込んでくるすべてに、内側から力いっぱい蓋をした。
ふっと世界が戻ってきた。
気づくと、セイルは床に手をついて荒い息をついていた。全身が汗で濡れている。心の臓が早鐘を打っていた。
「……無茶をさせた」オルセンが痩せた手で、セイルの背をさすった。その声にはめずらしく、悔いがあった。「すまん。君の才があまりに見事で――つい深追いをさせた」
「今のは」セイルは喘ぎながら訊いた。「何だったんだ」
オルセンはしばらく答えなかった。それから低い声で言った。
「視るというのは――視られるということでもある」
老教授の目が暗くなった。
「深く視れば視るほど、向こうもこちらを引き込もうとする。流れの奥には、もっと深いものがある。もっと深く呑まれたものがある。視る者は、そこへ近づきすぎてはならん。近づきすぎた者が、どうなるか――」
オルセンはそこで口をつぐんだ。
言わなかったが、その横顔が語っていた。近づきすぎた者を、この老人は知っている。おそらく一人ではなく。
帰り道セイルは自分の両手を見つめた。
止められるようになった。絞れるようになった。深く視られるようになった。それは確かに力だった。村では呪いでしかなかったものが、初めて自分の手の中の道具になりかけている。
だが――深く視るほど、向こうもこちらを引き込む。
力が増すほど、淵も深くなる。
いつぞやの講義で聞いたあの階段を、セイルは思い出した。等級が上がるほど、支払うものも重くなる。下級の微々たる魔力から、竜級の命そのものまで。
あれは魔法の話だと思っていた。
だが自分の「視る」力にも、同じ階段があるのかもしれない。深く視るほど――いつか自分も、何かを支払うことになるのかもしれない。
セイルは両手を強く握りしめた。
それでもと思った。村でただ垂れ流して苦しんでいたころには、もう戻れなかった。




